事件を子どもが変わるきっかけに
孔子の弟子の子皐(しこう)は、裁判官をしていて、ある男を足切りの刑に処した。しばらくして王様ににらまれ、孔子一行は国外逃亡をしようとするけれど、包囲されて絶体絶命に。その時なんと、足切りの刑にあった男が逃亡の手引きをしてくれ、国外に逃げることができた。
子皐は「お前の足を切るというひどい刑を言い渡した私を、どうして助けようとしてくれたのか?」と尋ねた。男は「あなたは私の事情を知り、なんとか罪を軽くできないかと苦悩してくれているのがわかりました。私が足切りになるのは避けられない罪でしたから仕方ないのです」と答えた。
この教師は、なぜ子皐のような姿勢を取らなかったのだろう?カンニングした子どもを悪人だと決めつけるのは簡単だ。しかし大切なことは、こうしたことを二度と行わない、と、子どもが心底思うように導くことではなかったか。それが教師の務めではないだろうか。 https://news.yahoo.co.jp/articles/c8217a4588d45460da2e4fc4eb9abc8b0254d3f0?source=sns&dv=pc&mid=other&date=20240408&ctg=loc&bt=tw_up
「ああ無情(レ・ミゼラブル)」の主人公は不幸が重なりすっかりやさぐれていた。メシも食えず、飢えた末に教会の燭台を盗んだが、すぐに捕まった。警察が主人公を連れて突き出すと、司教は「それは私が彼に差し上げたものです」と言ってかばった。この衝撃的な体験が、主人公を劇的に変える物語。
「ああ無情」は小説でしかない。フィクション。でも、罪をおかした者が真に悔いるときって、「理解」を示されたときではないか。理解してくれた人への感謝、よりによってその人に迷惑をかけてしまったという悔恨。真の反省とは、悔恨とは、感謝が生まれるときに生まれるものかもしれない。
「しょせん他人事ですから」というマンガで、ネットで中傷したのを訴えられた少年が出てくる。言い訳ばかりし、自分以外にも中傷していた人間がいたのになんで自分だけ?と、表面的に反省してみせただけで、ちっとも本当の意味で反省しない少年。不運だった、くらいの捉え方が続く。しかし。
被害者を前にして、父親が「本当にすみませんでした!」と土下座する。まだキョトンとしてる少年。
その後、一緒に風呂に入っているとき、「同じ間違いをするんじゃないぞ」と優しく父から語りかけられたとき、初めて泣き崩れる。なんてことしたのか!と。
多額の賠償を親にさせてしまい、遠くの地まで一緒に謝りに来、自分の代わりに土下座までしてくれたのに、自分への愛情を失わない父親の態度を見て、初めて悔いが押し寄せてきたのだろう。
反省とか悔いというのは、自分が大切に思っている人を傷つけてしまった、なのにその人は私への信頼を崩さないことへの感謝があるとき、生まれるもののような気がする。厳しく責め立てる人間には反感は覚えても、反省とか悔いという気持ちにはなりにくい気がする。反省と言っても「ヘタこいた」くらい。
大切なのは「レッテル」を貼ることではない。そんなことをしても教育効果は望めない。もう二度とこんなことはしたくない、という気持ちを起こさせること。それでいて、前向きに生きようという勇気が湧いてくるように導くこと。
たぶん、件の子どもは、自分の生涯が「卑怯者」で塗り潰されたように感じたのだろう。なるほど、カンニングは悪い。しかし単に罰を与え、レッテルを貼ったら指導終わりというのでは、教育者とは言えない。そんな指導内容は誰にでもできるからだ。
大切なことは、何かが起きたとき、それをその子が変わるきっかけにすること。問題が起きたときは、むしろこの子が変わるチャンスだ!と喜び、いかに機会として活かすかという発想をもつ。それが教育者には求められるのではないか。
私は中2の11月11日、住んでいるマンションの大ガラスを割ってしまった。母親の仕事を嫌々手伝っている最中の出来事だった。修理には八万円はするだろうという。母親はその場で泣き崩れた。「そんなお金ないのに、どうしたらいいの?」実際、本当に家にお金のない時期だった。
両親は経営していた商売を手放し、その際に一億をこす借金。家賃は滞納、家に千円しかない日もある状態。知人に商品を回してもらってそれを売って現金に変え、なんとか食べつないでいる状態。そんな中で八万円もするガラスを割ってしまった。
私は真っ暗な部屋の隅でうずくまっていた。
そしたら、父がなけなしのお金を握って私を喫茶店に連れ出した。父は次のように語り始めた。
「お前はまだ中学生で、八万円もの大金を弁償することはできない。でも、お母さんが毎日頑張って働いているのを知っているだろう?だから、お母さんに役立つことを考えなさい」
「これから5つのことを話すよ。
炊事、洗濯、掃除などの家事は全部お前がやりなさい。これが1つ目。2つ目、それを言い訳にして部活をやめてはいけない。お前の年頃は体を鍛えるのも大切だよ。3つ目、お前は友達とあまり遊ばないけど、遊びなさい。友達は大切だよ」
「4つ目、頑張ってばかりだと疲れる。だから休むときはしっかり休みなさい。でも、これまでのようにテレビ見たり漫画見たりでダラダラ過ごすのではなくて、メリハリつけて休むこと。
最後に。お前はちっとも勉強しないけど、少しはやりなさい。成績上がると、お母さんは何より喜ぶよ」
私が勉強し始めるのはそれから。大ガラスを割るというとんでもないことをやらかしたのが、私の変わるきっかけとなった。この事件がなければ、私はその後京大に入学することはなかっただろう。行ける高校あるだろうか?と言われる状態だったのだから。
とんでもないことをやらかしたときは、その子が大きく変わるチャンス。それを活かすかどうかは、周囲の大人の手腕にかかる。
今回の事件は、先生に教育者としてのそうした自覚を感じないのが残念。