「子どもっぽい説教」と「大人の説教」

「説教」考。
「SEKAI NO OWARI」という人達が紅白で「説教するってぶっちゃけ快楽」と歌っていた。説教は若者のために話しているフリして、実は年配者の自己満足に過ぎない、マスタベーションだ、ということを短く喝破した見事な歌詞だと思う。
そういえば、年配者が私に語るに。

「今の若者って、説教嫌がるだろ」と言った。ところが当時まだ若かった私は、「とんでもない、若者は説教大好物ですよ」ととっさに答えた。「ただし自慢話は嫌いですけどね」と付け加えて。
事実、私の父のもとには若者がよく集まり、何時間もの説教を聞きに来ていた。夜通しになることも。

私も学生と食事に行くと、何時間も話し込むことがあった。ファミレスで学生がトイレに立ち、そろそろ私の話も聞き飽きたろう、と思って帰り支度していると、フリードリンクをお代わりして戻ってきて、「さあ、話の続きを」とやられて、また何時間も話し込んだことが。若者は説教が大好き。

ただし父も私も、若者が説教を聞きたがらなくなった時期がある。若者が話を切りたがり、帰りたがり、異論反論を述べたりして。「偉そうな口を叩くようになったじゃないか」と思っていたら、他の学生まで同じ態度に。いや、これは特定の学生が態度を変えたのではなく、自分が変質したのだと気づいた。

説教の内容にどんな変化が起きたのだろう、と振り返ってみると、「自慢話」ばかりになっていた。自分の話したいこと、聞いてほしいことを話しているだけ。その経験の素晴らしさ、着想の鋭さ、思考の深さを若者に思い知らせて、驚かせようと企んでいた。すると若者は聞く耳を持とうとしなくなった。

逆に、若者が何時間でも話を聞きたがるときはどんな話をしていたのだろう?と振り返ると、若者が聞きたそうな話ばかりしていた。自分が話したいことではなく、相手が聞きたいのではないかという話題を手探りしながら話していた。若者に少しでもヒントになればと祈りながら。

若者の年齢から状況を推し量り、自分が同じ年頃の頃、どんな悩みを持ち、苦しんでいたかを思い出し、その時の情けない自分を話す。すると若者は身を乗り出して聞こうとする。ドンピシャに若者の悩みだったりすることもあるし、知人が悩んでいてどう接したらよいのか分からないでいる話題だったり。

正解を話す必要はない。「とりあえずこうしてみようと思って迷いながら進んでみたけど、それで良かったのか今でも分からない」という、どっちつかずの話でも構わない。それでも目の前に年配者が生きているいるのを見て、「どうにか切り抜けられるのだな」と若者は感じ取り、少し安心できるから。

若者に自慢話をするのではなく、自分が若い頃、何に悩み、どれだけ迷ったか、という情けない話をするとよいと思う。若者は自分の悩み、あるいは友人の悩みになぞらえて、深く考えるようになる。まだこれからの話でも、いつか抱えるだろう問題だと思い、深く受けとめ、備えようと考える。

若者に答えを与える必要はない。正解はこれだと提示する必要もない。ともに迷い、悩んだ者として共感し、あるいは思いやり、一つの事例として参考になれば幸いだと思って紹介する。「何の役に立つかわからないけどね」と言いながら。若者が現状を打開できるよう祈りつつ。

若者が何に悩んでるのかなんて分からない。自分の話すことが的はずれな可能性は非常に高い。なのに偉そうに話すことなんてできるはずはない。でも、もし自分が若かったときにこんな話を聞きたかったな、というのがあれば、目の前の若者に少しでもヒントになれば、という祈りをこめて話す。

どうか目の前の若者に、少しでもヒントになりますように、と祈ること。ヒントにもなんにもならないという不安、恐れを抱きつつ、でももしかしたら一片のヒントになるかもと祈りつつ。そうした祈りのこもった説教は、若者は大好物であるらしい。

人間はどうやら、自分を思いやろうとしていること、しかし自分の悩みが本当はどんなものなのかはわからないこと、しかし少しでも役に立ったらと思っていること、それでも何にも役に立たないかも、と迷っていること、そうしたことを雰囲気から感じ取ることができるらしい。

自分のことをきちんと見ようとしてくれている。自分勝手な妄想を自分に当てはめたりしようとせず、自分の様子を見ながら、こんな話題だったらヒントになるだろうか、と手探りしながら話題を探してくれている、というのを感じると、若者は身を乗り出して聞くらしい。

そう。この場合、言葉を発しているのは年配者だけのように見える。しかし年配者は言葉にならない言葉を若者の様子や仕草から感じ取り、聞き耳を立てている。年配者の言葉は、若者が無言で発する言葉を言語化しているだけ。年配者ばかりが話しているようで、実は若者ばかりが話している。

こうした構図が成立するとき、若者にとって、その説教は大好物となる。自分にカスタマイズされた特別な言葉。自分が言葉にできなかったものが言葉になっていくのを感じて、嬉しくなるらしい。

仏陀は説教する際、目の前にする人に合わせて話を変えたという。場合によっては、それまで自分の言ってきたことと矛盾するようなことでも、目の前の人間の悩みがほころぶきっかけになるならば、と話をした。それを「方便」という。ウソなんだけど、相手のためにつくウソも、仏陀はしたという。

人を傷つけてしまった、と悩んでいる若者に「そうだ、傷つけることは悪いことだ」と正論をぶつけるのは、傷口に塩をすり込むだけに終わる恐れがある。「そうだよなあ、人を傷つけて、悔いることがこの年になっても何度もあって」と共感することの方がはるかにマシ。その上でどう考えるか。

年配者は、自分の話したいことを話すのではなく、自慢話をして若者を驚かせよう、感心させようとするのではなく、若者の立場に寄り添い、こんなことで悩んでいるのではと推量し、自分の情けなかった話、悩み苦しんだ話をして上げてほしい。すると、多くの若者は聞きたがるように思う。

そんな情けない話であっても、若者にはとても役に立つ。若者は自分の悩みや迷いを言語化できずに苦しんでいることが多い。年配者はトシを食ってるだけあって、若い頃の悩みを言語化しやすくなっている。それを言語化して伝えるだけで、若者はそれを起点にして考えるきっかけを得る。

あとは若者が考えればよいこと。どんな道を歩んでも構わない。年配者は、言語化を手助けすることで、若者が考えるきっかけを提供できればそれでよい、そう考えればよいのだと思う。すると、お説教は多くの若者にとって好物なものに変わるもののように思う。

結局、説教には2種類あって、「子どもっぽい説教」と「大人の説教」があるように思う。前者は偉そうで、断定口調で、自分の話を有難がれ、という期待に満ち満ちている。だから相手が聞こうとしていない、身を入れて聞いていないと怒り出す。これは、表面上の偉さと違って、子どもっぽいと言える。

幼い子どもが大人に「ねえ、見て見て」という口癖がある。実は「子どもっぽい説教」は、これと同じ。「ねえ、僕、こんな立派なお話できるようになったよ!見て見て!聞いて聞いて!」若者は年配者の子供っぽさに辟易するから聞く気になれないのかもしれない。

他方、大人の説教は、自分に敬意を持ってもらおうとも思っていない。自分の話に驚いてもらおうと思っていない。若者の少しでも役に立つなら、でも立たないかもしれない、と思いながら話す。役に立たないなら聞かなくても仕方ない、と思いながら話す。達観しながら話しているように思う。

年配者は、果たして自分の説教が子どもっぽい欲求から生まれたものか、それとも若者が聞かなくても仕方ない、役に立たないかもしれない、という諦念を持ちながらも、少しでも役に立てばと祈りをこめて話してるものなのか、考えてみるとよいと思う。すると、話し方は劇的に変わるように思う。

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