「怒るはダメ、叱るはOK」?いや、そこじゃなくて。

感情的になる「怒る」はダメだけど、理性的に諭す「叱る」はオーケー、みたいなご意見を頂いた。「怒るはダメ、叱るはOK」というのはどうやら世間に広く流布している話のようなのだけれど、私は違和感。どちらも親や指導者の振る舞いのことしか問題にしていないから。

こっちだって人間だもの、そりゃ腹の立つこともあるし、怒りたくなるのも仕方ないことがある。その感情を封じ込めて、理性的にふるまえばオーケー、って、なんかおかしくないか。子ども見てないやん、というのが気になって仕方ない。

親でも腹の立つことがある。怒ってしまうこともある。ただ、それを子どもにそのままぶつけてよいかというと、それは違うように思う。自分にも感情と都合があるように、子どもにも感情と都合がある。そして、子どもに必ずしも親の都合を分かってもらえるとは限らない。

だから、自分の腹立ちはとりあえず脇に置いて、子どもをよく観る。この子は今、どんな気持ちだろう?状況をどう把握しているのだろう?私はこの時間までにあそこに行かなければ、そのためには10分後には家を出なくては、と思っているけれど、この子はそんな先読みが可能な発達段階だろうか?

子どもにそうあってほしい、そうでなければならぬ、というこちらの思いは置いといて、子どもが現状、どうであるかを考える。すると「あ、無理だな。今この子にこれを要求するのは酷だ」と思われたら、目の前の子にも実践可能な方法を考えざるを得ない。

感情を抑えて理性的にふるまう「叱る」ならば、こちらの要望、期待通りに事が進むかと言えば、それは無茶な妄想。こちらの都合、欲求を子どもにぶつけているだけで、子どもにとったら飛躍が多く、理不尽に感じるものも多いだろう。理性的な「叱る」で免罪符が得られるわけではない。

我も人なり。子どもも人なり。自分も弱い人間で、自分の都合でついついものを考え、それを相手に押し付けたくなる、身勝手な人間。そして子どもも弱い存在で、そして天真爛漫に今を楽しみたいという欲求のカタマリ。そんな人間であることをまず認め、その上で何ができるかを考える必要がある。

そのためには普段から自分の心の内奥を観察すると同時に、子どももよく観察する必要がある。自分の弱さを許し、弱いことを前提としたうえでとり得る対策を考え、子どももまだ未発達で未来を予想する力が弱いことを前提で、とり得る対策を考える必要がある。

「感情を抑え、理性的になる」なら自分の都合を押し付けられる、欲求を実現できる、と思ったら大間違い。重要なのは、自分の感情も、子どもの感情も大切にすることではないか。人間は弱い。自分も弱い。子どもも弱い。その弱さを許し、その弱さを前提にして可能な方策を考えることが大切なように思う。

そのためにも、子どもをよく観察し、自分の心の本音も変に否定せずによく観察することが大切だと思う。ああすべき、こうすべきを考える前によく観察。観察を踏まえて、弱さを踏まえて、よりよい対策を考える。それが無難だし最適解が見つかりやすいように思う。

ちょっと追伸。
私の部下育成本と子育て本は、一つ特徴がある。「部下が」「子どもが」と、主語を相手において、「上司が」「親が」という自分側のことを主語にしていないこと。
少なからずの部下育成本、子育て本が、「上司は」「親は」こうすべき、と、主語を指導者側に置いているのが目立つ。

「部下がこういう状態の時、上司はこうすべき」「子どもがこういう状態なら、親はこうすべき」と、一応、部下や子どもを枕詞に置くけれど、すぐに「上司は」「親は」と主語を指導側に置き、しかも「こうすべき」と、べき論、ねば論で縛ろうとする。私はこれ、あまり望ましくない方向のように感じる。

上司や親といった指導者側の都合が優先されて、部下や子どもの観察を怠る方向になってしまいがちだから。私は、部下や子どもの指導は、何よりもまず観察が重要だと考えている。医療で言えば、診察に当たる。診察し、病気のアタリをつけてからでないと治療にあたってはいけないのは常識。

なのに、診察し、診断がまだ定まっていないのに見た目だけで判断し、「あ、これは上司本や子育て本に書いていたあのケースだな、だとしたら私はこうすべきなんだな」とマニュアルに従おうとしてしまう。これは、診察もしないうちに薬を渡す藪医者と一緒になってしまう。

まずは診察、診断が大事。それと同じように、部下育成や子育てで重要なのは、観察。指導者である自分の振る舞いなんか、後、後。観察し、相手の気持ちがどうあるのかをまず見当つけ、それから自分の振る舞いをどうしたらよいかを考える。その順番を間違えてはいけないように思う。

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