大人に楯突くヤンキーはなぜ減ったのか

「ヤンキーはどこに行った?」という話が、いつものウェブ飲み会で。昔はいわゆる不良、非行少年がいて、大人にやたらと楯突くヤンキースがいた。暴走族など、かなりヤンチャな青少年がいた。今もいないわけではないが、ほとんど目にしなくなったのはなぜだ?と。

補導員がシンナー少年に刺されて死んだ、という事件がきっかけのように思う。その補導員の子どもが私の塾に来ていた。あの事件以来、大人が子どもの前に立ちはだかることがなくなった。「もしタバコを吸ってるのを注意したりなんかして刺されたらたまらない」と。

それまでの大人は、子どもに注意するのが当たり前とされていた。ガンコ親父、ガミガミ親父という人は一定数いた。そしてヤンキーの子らはそのオヤジ達を挑発するかのように目の前でタバコを吸い、シンナーを吸い、暴走行為を働いていた。しかし肝腎の大人が壁として立ちはだからなくなると。

いくら大人たちの目の前でタバコを吸っていても誰も注意しなくなった。コンビニの前でたむろしていても誰も注意しなくなった。すると、反発すべき敵、壁がいないと甲斐がないのか、向こう気の強いヤンキーが姿を消していった。

時代背景もあるように思う。「注意して刺されたら大変」と大人が言い出してしばらくすると「価値観の多様化」という最高の言い訳が広まり始めた。ヤンキー的振る舞いも多様性の一つとして認めれば、注意すべき対象ではなくなる。ホッと胸をなでおろす大人も少なくなかったように思う。

「価値観の多様化」は、不良行為を続ける子どもを注意できない不甲斐なさを「多様性を認める寛大さ」という論理で繕うことができた。とても便利。そんなことも手伝って、「価値観の多様化」は受け入れられたのだと思う。すると、子どもたちはさらにぶち当たるべき「壁」を見失うことに。

「注意したら刺されるかも」という恐怖、「価値観の多様化」という素晴らしい言い訳、この2つが、「子供の前に立ちはだかる壁」であることを、大人がやめるきっかけとなった。私は当時大学生だったが、急速に大人の男性が子どもたちに対して気弱になっていくのを観察していた。

それと同時に、子どもたちが大人しくなっていった。大人に楯突くヤンキーの姿を見なくなり、良くも悪くも従順な子どもが増えていった。その経過を見ていると、「なんだ、不良とか非行少年を生んでいたのは、口やかましい大人のせいだったのか!」と、私は合点した。

私の見るところ、ヤンキーが姿を消したのは、ガミガミ親父が姿を消したからだと思う。逆に言えば、不良や非行少年と呼ばれる存在は、ガミガミ親父が生み出していたものだったのでは?という気がしている。反発せずにいられない「壁」があるとき、子どもはそれをぶち破ろうとする。

しかし、壁が壁でなく、フニャフニャのコンニャクみたいだと、子どもは反発する気も失うらしい。もし、今の子どもに覇気を感じないのだとしたら、それは大人に覇気がないからだろう。子どもはやはり、大人の鏡なのかもしれない。

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