専門用語は圧縮ファイル

私の書くようなことはすでに先人が書いてる、という指摘を受けた。その通りだと思う。ではその先人を紹介したら読むかというと、それは難しいと思う。だって昔の人の言葉遣いって、小難しいから。
私は、人間の賢さと学歴は関係ないと考えている。ただし。

学歴が進むにつれ小難しい表現に慣れる人が増える。しかし小難しい表現に慣れれば賢くなるのかといえばさにあらず。生きていること、五感や体験と、小難しい言葉が指し示した「着眼点」をリンクさせる作業が欠かせない。しばしばこの五感とのリンク作業が怠られて、小難しい言葉だけが浮いてしまう。

学歴がなくても賢い人は、言葉と思考・行動が見事にリンクしている。言葉が遊離しない。こうした人の言葉は非常に含蓄が深く、味わいがある。こうした人の話が好き。こうした人の言動は、しばしば学問で使われる小難しい言葉が指し示すものそのものだったりする。「これはそういう意味だったのか!」

もしかしたら、学問とは、深淵の中のさらに深淵を目指すものなのかもしれない。プロはそうなのだろうし、研究者ならそうあるべきだろう。でも特に専門家でもない私達は、何も深淵のその向こうを必ずしも目指す必要はない。研究者から見ればずっと手前の入口あたりかもしれない。

でも、昨日より今日、知らなかったことを知ることができたらそれでよいのではないか。赤ちゃんが今日初めて立った。そのことを「当たり前だ」と片付けることもできるかもしれない。世界最速の男、ボルトと比較すればお笑い草なのかもしれない。だが。

昨日までできなかったことを、試行錯誤を繰り返すことでできた奇跡。その奇跡を見ることは実に楽しい。種子が発芽するのは当たり前かもしれない。しかし硬い殻を破って発芽するその奇跡にも感動してしまう。私は深淵の先を覗くよりも、身近でささいな変化が結構楽しいほう。

深淵のまた深淵を覗くのは専門家にお任せしたい。素人が洞窟に下手に入ったら迷い込んで死んでしまいかねない。いかにその洞窟が魅力的だと聞かされても、「いや、洞窟の外で結構です」という人がいても、私は構わないと考えている。

いろんな人がいていい。深さをひたすら追求する人がいてもいいし、昨日より今日、進んだささやかな進歩を楽しむ人がいても構わない。
ツイッターという場は、いろんな人たちがいる場だと思う。「こうでなければならない」という、万人に強制できるものはないと思う。

ツイッターという場は、専門家が専門家にしかわからない深淵を覗き合う場所としてよりは、多くの人が「そうなんか!」と、共に発見できる場として活用するのが向いていると思う。そのためには、小難しい言葉はなるべく避けたいところ。小難しい言葉は、人を遠ざける遠心力があるから。

なぜ小難しい専門用語は、ツイッターのような場では遠心力を示すのだろう?専門用語とは、圧縮ファイルのようなものだと思う。解凍ツール持ってる専門家は内容を読めるけど、それのない人は中身を見ることすらできない。それでは、ツイッターのような場だとイマイチ有効ではない。

ただし、小難しい専門用語を知っておくと、一つのメリットがある。着眼点を示せること。私は、専門用語とは着眼点だと考えている。何かの気づきに名前をつけたもの。だから、専門用語をたくさん知っていると着眼点をたくさん示せることになる。
ただし。

専門用語のままだと着眼点を示すことにはならない。「圧縮ファイル」だから意味不明。圧縮ファイルを解凍して、誰にでも読めるものにする必要がある。
解凍すると日常用語になるから、専門用語のような厳密さは失われる。意味はズレてくる。でも、気づきを得るのが目的なら、それで構わない。

専門用語が苦手な人でも、気づきへの感度は必ずしも悪くはない。ならば、日常用語で気づきの山を共に築いて楽しむのもアリだと思う。ツイッターはそれに適した場のように感じている。専門用語を知っている人は、それを解凍し、気づきを増やすきっかけを提供していただきたい。すると。

体験や言葉が遊離していない賢い人から、「それで気がついたけど」と、日常の出来事とつなげて紹介してくれたりする。それは新たな気づきにつながる。ツイッターでバズるときって、しばしばそういう現象が起きているように思う。

気づきの共有。ツイッターは、そのための場としてかなり有効な場。それをさらに有効ならしめるには、専門用語という圧縮ファイルは解凍され、誰にでも解読できるものにする必要があると思う。解凍ツールを持ってる人ならではの出番だと思う。

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