「文句があるならお前が政治家になって変えろ」考
民主主義のシステムは、基本「代議士」だと考えている。国民全員が一堂に集まって議論するのは難しいため、なるべく多くの人の意見をとりまとめ、「代わりに議論し、適切な法律や条例を考える人」を選出するようにしたのだと。
スウェーデンのエコツアーに参加したとき、カルチャーショックを受けた。「私たちはユーロ(ヨーロッパの共通通貨)を導入するか、とことん議論した。そして最終的に決断した」と述べたのは、普通の五十代の女性。政治家でも官僚でもない人が国の方針の決定に関わっているという感覚を共有していた。
スウェーデンでは、小さな町だと全員が集まれる広場があり、そこで議論する。そこの話し合いの結果を代議士は聞き取り、それを議会に届ける。自治会でも国のサイズでもそんな感じ。公務員も参加して、「あれはこうした方がいいよね」という声に対し「そうだね」と答えたりして、フラット。
ところが日本は「代議士」を国民の代表、リーダー、特権階級と勘違いし、いったん当選したら白紙委任状を受け取ったものとして、好き勝手決めてよい、と勘違いしてる政治家が少なくない。これは、代議士が市民の意見を代弁するという暗黙の了解を無視し、仕組みを悪用して暴君として振る舞う行為。
アメリカの指導層がトランプ大統領の登場でビックリしたのは、大統領は国民の意見を体現するという暗黙の了解を無視し、独裁者のように振る舞う人間がアメリカの仕組みを乗っ取れる、ということに気がついたこと。そして実は、政党が国民の意見を代弁できてない実態が、知らぬ間に進行してたこと。
ただ、トランプ氏が大統領になる前に、日本の方が「仕組みを悪用する」というアイデアを生む点においては先行していた。選挙で当選したら白紙委任状を手にしたようなもの、と言うような政治家が現れたのはその一つ。市民、国民の意見を代弁するのではなく、身勝手に振る舞う君主になったと勘違い。
「政治家は孤独に決断しなきゃいけない」なんて言う政治家もいるけど、民主主義の国でなにを勝手に決めとるねん、と思う。ちゃんと市民が話し合い、それでおおよそ固まった意見を議会に届ける、本来の代議士の仕事せんと何勝手なこと言っとるのか、私は首を傾げる。
「国民が話し合うと言っても、みんな知識があるわけではない。中途半端な知識で誤った判断するリスクはどうするの?」と、前述のスウェーデンのおばちゃんに尋ねた。「専門家や現場の人間が話し合い、市民にわかりやすく説明し、いくつかの選択肢と、それぞれの根拠を示す」のだという。
市民は、専門家や現場の人々に敬意を示す。決してバカにしない。ただし、疑問点は遠慮なくぶつける。専門家や現場の人々は疑問に一つ一つ丁寧に答え、市民の理解を促す。こうして、市民が話し合いの結果、「このあたりだろう」という落としどころが自然と浮かび上がってくるのだという。
専門家や現場の人間など、問題を深く認識する人たち、その人たちに疑問をぶつけ、理解を深めていく市民、その議論の過程に参加し、集約されていった意見を議会に伝える代議士。決まったことを履行する公務員。民主主義はそうして機能させる、と教科書にも書いてある。
日本でもそれができないとは思えない。江戸時代は封建制ではあったが、村落共同体では三日三晩話し合って決めるという民主主義的な営みもあった。それを慣習として失ってしまったが、これを自治体や国など、様々なレベルで仕組みとして機能させればよい。
できるかどうかは、やろうとするかどうかだけ。日本は小泉旋風以降、強いリーダーはかっこいいと勘違いしてきた。けれど、昨今は現場からの声、専門家からの必死の訴えを軽んじ、国民の声を軽視し、自己判断する傾向が強い。しかしそろそろ国民もうんざりし始めた気がする。
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