人を見下す人が嫌いなのはなぜなのか

私は高校卒業時に「大学には行かしてやれんかもしれん」と父に告げられた。当時、母が大病し、死に病と宣告されていた。しかも借金だらけ、父は事情あって無職、アルバイトでくいつないでいる状態。経済的にも最悪で、進学どころではなかった。家賃も滞納、食べるのがやっと。

たまたま母は手術してみると死に病ではなく(しかし2,3日手術せずに放置していたら危なかった状態)、助かった。それで大学に進学することを再び真剣に考えたのだけれど、その時以来、「もし大学にあのまま行けなかったら」を常に考えて生きている。

大学に行けず、高卒で勤め始めたらどうだったろう?高校卒業してしまってからだと、高校によるあっせんもないので条件が厳しい。きっと仕事探しも苦労していただろう。しかしそうであっても、私は私。どんな仕事をしているかは外側の話。今の私と高卒のままの私、どちらも私。

学歴のないことを理由に見下したり、社会的地位がないことを理由に見下したりする言動を見ると、私は「もう一人の私」が見下されたような気がして、気分が悪くなる。私は、もしかしたらそうだったかもしれない「私」を見下すようなことはしたくない。

母は命が助かったとはいえ、やはり大病で、退院後も思うように家事はできず、兄弟3人で家事を回していた。当番にしていたのだが、当時、高校生と中学生の弟は部活で忙しく、しわ寄せが私に来ることが多かった。受験生なのに受験勉強ができず、焦る気持ちが強かった。

それでも、家族の危機の時に逃げたくはなかった。大学に行かせてやれんかもしれん、と告げられた時も、その運命を甘受しよう、と腹をくくった当時の自分を、私は今でも誇りに思う。愚痴も言わずに、家事を引き受けた自分をほめたい思い。

残念ながら勉強不足がたたり、京都大学の受験は失敗し、第二志望の大学に進むことに。それでも私は誇りに思っていた。家族の危機の時に逃げなかった。それを誇りにしていた。が、周囲はそうは見ない。京大受かるかも、と思ってチヤホヤしていた人たちが、落ちるとサーッといなくなった。まあ仕方ない。

第二志望の大学の合格通知が来た翌朝、正面に住むおばあさんが訪ねてきた。「あんた、お母さんが倒れて、それでも毎日買い物に行って料理して洗濯して。本当に偉かったね。このたびは、本当におめでとう」と、合格祝いを渡してくれた。

その人だけだった。京大落ちて残念だったね、ではなく、大学の名前なんかどうでもよく、私が家事から逃げなかったこと、母が倒れた後、家族の危機を支えようとしたことを見てくれていた。そしてそのことを何より認めてくれた。家族も含めて、そうした反応を示してくれたのはその人だけ。嬉しかった。

その時頂いた合格祝いは、今も手を付けずに大切に残してある。もしかしたら大学に行けなかったかもしれない「私」を誇りに思う気持ちに光を差してくれたのは、そのおばあさんだった。私はこのおばあさんのような人間になりたいと思った。その思いは今も続いている。

世の中には、学歴も社会的地位も、事情があって得る機会がなかった人がたくさんいる。しかし、家族の危機に逃げずに、まじめにコツコツ働いてきた人がたくさんいる。私はそうした人たちに強い尊敬の気持ちを持つ。学歴や地位でいい気になるのは容易だが。

そうしたものがなくても、人への優しさ、誠実さ、まじめさを失わないことは、そうたやすいことではない。不満を持ち、人に攻撃的になるのが普通。けれど、つらい道を歩んでも笑顔を失わず、人への優しさを失わない人がいる。これはすごい偉業ではなかろうか。

母が入院している最中にたまたま、中国残留日本人婦人の番組を見た。多くの人が中国に残留することになった不幸を嘆き、苦しみ、日本に帰れた人を羨んだ。しかし一人だけニコニコ笑い、冗談を飛ばし、苦労のことなんか一つも話そうとしない陽気な女性がいた。

しかし、その女性は凄絶な過去を持っていた。父と継母、腹違いの弟と満州から逃げた。途中、父親が病死。3人でようやく港についたが、所持金では二人しか日本に渡航できないと言われた。その女性は継母に向かい「あなたは跡取り息子を無事日本に届ける責任があります」と言い、自身が中国に残った。

14歳の娘が。お金もなく、身寄りもない中国で。
そのエピソードは、日本に戻った弟さんが記者に語った。大粒の涙を滝のように流しながら、「姉は私たちの犠牲になったのです」。
弟さんから事情を聞いた、と記者から告げられると、その女性は何かを思い出したのか、涙をにじませた。が、すぐに。

「あら、こんなことで泣いたりして。はずかしい。お釈迦様が空で笑っているよ、こんなことで泣くのか、って」と言って、再び笑った。
私はテレビを見ながら、心底驚いた。私はこの女性のようになれるだろうか。運命を恨むことなく、笑顔で優しさを失わない人間に。

市井には、そうした人たちがたくさんいる。だからこの社会は回っている。私は、そうした人たちに心から敬意を示したいと考えている。なのに、どうしたわけか見下そうとする人たちがいる。貧しいというだけで。学歴とか地位がないというだけで。私は正直、憤りを隠せない。

私は今も、高卒のまま働いていたかもしれない自分と伴走している。そして、君はえらい、よく逃げなかった、立ち向かっていて素晴らしい、と声をかける。そして、今の自分をもう一度引き締める。私はまだまだだ、と。

地位だとか学歴だとかいう外側の飾りで自分を飾り立て、それがない人を馬鹿にする人を見ると、「お前の素はどこや!」とひっぺ返したくなるのは、そのためだろう。そんなものは飾りでしかない、本物のお前を見せろ!と。

みんな人それぞれ、事情がある。事情がある中でも笑顔を忘れず、優しさを失わないようにしている人は、それだけで立派。そうした立派な人たちが楽しんで生きていける社会であってほしい。そうでないなら、それを改めていきたい。私の行動原理は、シンプル。

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