教育学はまだ科学的検討が難しい分野

教育学は、人間の営みの中でも最重要のことを研究する学問でありながら、科学的に扱うことが難しく、今後も当分は科学として取り扱うことが難しいと思う。「子育ての巧拙」を定義することが非常に難しく、定量的に扱えないからだ。

「あの人に出会って人生が変わった」という体験を持つ人は多い。この親でなければ今の自分はないだろう、と思う方は非常に多い。だから実例にあふれている。あふれているにも関わらず、数値化できない。定量化できない。子どもによって性質が様々、適した接し方も様々だからだ。

たとえば先日も紹介した話だが、果敢派の親が慎重派の子どもに、自分のように果敢になれと強制することで子どもの意欲を奪うことがある。他方、慎重派の親が果敢派の子どもの乱暴さを叱ってばかりで、「悪い子」のレッテルを貼りかねないケースもあり得る。
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果敢派の子ども、慎重派の子ども、それぞれ適した接し方がある。そして親にも果敢派、慎重派がいる。ミスマッチだとうまくいかない。そしてこの現象ひとつとっても、数値化することが難しい。まずは親が果敢派なのか慎重派なのか、どうやって判別するのか?から始めなきゃいけない。

そして、果敢派の親でも、慎重派の子どもをうまくあしらうことができる場合もある。慎重派の親が、果敢派の子どもをうまく御する場合もある。子育ての巧拙は、親の性質と必ずしも連動していない。子どもの性質を見抜く能力、それに合わせた接し方を選べる能力によるわけだけど、どうやって定義する?

子育てには確かに巧拙はある。同じ子どもでも、このタイミングではこの接し方が適しているが、べつのタイミングでは別の接し方の方がよい、なんていう、実にややこしいことがザラにある。子育ては、あるタイミングでそれぞれに適した接し方ができるかどうかだから、数値化がきわめて困難。

では、教育学はムダなのかというと、そんなことはない。この時はこう接した方がよい、というコツ、チップスというのはある。それをとりあえず集積することは可能。子育ては、上手くなることができるものだと私は考えている。

基本、子どものやる気を邪魔しない、というのが、子育てでは大切だと考えている。その子の意欲さえ高めることができたら、後は子どもが勝手に学ぶ。どれだけ伸びるかは分からない。しかし、意欲がなかったときと比べたら、明らかに伸びる。子育てができるのは、今のところ、だいたいそこまでだと思う。

学ぶ意欲の強い子は、学力も伸び、意欲が失せてる子は伸びにくい。当たり前と言えば当たり前。これを、原因と結果が逆だと考える人もいる。学力がもともと高いから学ぶのが好きになり、意欲も高いが、理解力や学力が低い子は学ぶことがつらいから意欲が低いのだ、と。しかし私はそう思わない。

私は学年最下位クラスの子どもを4人見て、4人とも平均クラス以上まで成績を上げている。もちろん指導する前は学ぶ意欲はなかったが、意欲をとりもどしてからの変貌ぶりは凄まじい。少なくとも、意欲のないときとある時では学力は全然違う。
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私は、子どもの意欲の高め方をある程度定式化できたかな、とは考えている。しかしそれを科学的に証明しよう、と思っても、難しいなあ、と思う。たとえば複数の先生に同じ指導法を依頼しても、同じ指導にはならない。どうしても先生の個性が表れる。しかも、「タイミング(間)」がとても大切。

たとえば漫才でも、とても面白い場合は絶妙な間、呼吸がある。少しでも早かったり遅かったりするともう笑えない。生徒にかける言葉の文字面が同じでも、間合いや声色で子どもの受け取り方は微妙に違ってくる。

こうした「間」や「呼吸」は、定義が難しい。だから、この間や呼吸がピンとこない人は、マネが難しい。科学的研究が実にしづらい。

私は今、微生物群集の研究をしていて、数式化、モデル化が得意な研究者とディスカッションしているのだけど、難しいという。私が直感的に感じる微生物の振る舞いは、恐らく妥当だろうとその研究者も認めているのだけど、それをどうやって数式に落とし込むのが、とても苦労している。

私たちが数値化できるものはまだまだ数少ない。科学は、数値化できるものだけをとりあえず扱うしかなく、その前提だと、教育学はまだ科学の俎上に載せるのが難しい場面が多々ある。今のところ、「こんなケースもある」というケーススタディを増やし、いつか定量化できる日を待つしかないように思う。

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