観察力を磨くには「不思議を探し、楽しむ」

この記事で「のめり込む」体験が子どもの観察力を磨く、と書いたけれど、実は「のめり込む」だけでは観察力を磨くには足りない、と考えている。「のめり込む」ことが必要なのは前提だけれど、それだけではダメ。そのことにどうも、モンテッソーリも気づいていなかったのかも。
https://note.com/shinshinohara/n/ndd13af2c65e0

もう一度ナイチンゲールの言葉を引用。
『経験をもたらすのは観察だけなのである。観察をしない女性が、50年あるいは60年病人のそばで過ごしたとしても、決して賢い人間にはならないであろう。』
そう。たとえばそれが大好きでのめり込んだ経験があったとしても、観察眼が磨かれるとは限らない。

「のめり込む」経験は重要なのだけれど、子どもは満足すると、以後、大して関心を持たなくなる。のめり込んだその現象についてはもう知り尽くした、と考えているから。ここがポイント。観察力は、「それはもう知っているよ」と考えた途端、失われる。それだと「見てるだけ」になってしまう。

では、「見てるだけ」とは違う、「観察」とはどんなものだろう?私の考えでは、知らないこと、気づいていないことを見つけようとすること。それが観察。逆に言えば、知っていること探し、気づいていること探ししているようでは、「見てるだけ」になる。それは観察と呼ぶに値しない。

「のめり込む」体験の最中は、子どもは五感を通じて「観察」している。この時は「なんだこれは?」という好奇心が強くて、知らないものを知ろうとする。この渦中の間は「観察」していると言える。けれど一通り観察が済み、満足してしまうと、以後、その事象を「観察」することはなくなる。

「それはもう知ってる」となった途端、観察眼は失われる。分かっているつもり、知っているつもりになった途端、私たちは観察力を失う。目にその光景が飛び込んできても「ああ、それならもう知っているよ」で済ましてしまい、「路傍の石」化する。目に入っても見えなくなる。

観察とは、知っているつもり、分かっているつもりのものの中にも「まだ自分が気づいていなかった、知らなかった現象が隠されているかも」と鵜の目鷹の目で探すこと。ナイチンゲールはそのことを言っているのだろう。元気に見える患者に、何か兆候はないかと鵜の目鷹の目で観察することを。

子どもが側溝の流れをじっと眺めて「のめり込む」体験をしているのを邪魔する必要はない。ただ、どうせなら一緒に不思議がるとよいと思う。「もう何日も雨が降っていないのに、どこから水が流れてくるんだろう?」とか、「この水、どこに行くんだろうね?」とか。

うちの子二人には「なぜなぜ期」がなかった。理由は簡単で、親が教えようとせず、一緒に不思議がり、首をかしげていたから。なぜなぜ期は、子どもの質問に対し大人が答えてしまうから生まれてしまうのだろう。しかし私もYouMeさんも「なんでだろうね?」と一緒に不思議がっていた。

当たり前のことを当たり前と思わないようにした。磁石のS極とN極はくっつくけど、S極とS極は反発する。これは知識が身につけば当たり前にしてしまいがちだけど、「なんで昨日も今日もS極はS極なんだろう?」「N極とS極の間はなんなんだろう?」と、子どもが持たなかった不思議を大人も探す。すると。

子どもも負けじと、すでに知っていると思っていた現象から、新たな不思議を見つけようとするようになる。私やYouMeさんは、その不思議の発見に驚く。身近な現象の意外な不思議。知っているつもりの中から知らないを見つけることの面白さ。それを子どもと楽しんでいる。

「のめり込む」体験だけでは、知ったつもりになりがち。しかし観察力を身に着けるには、知っているつもり、分かっているつもりから不思議を見つけ、それに驚く感性が必要。センス・オブ・ワンダーが必要。

センス・オブ・ワンダーは、非日常的な大自然から感じる不思議のことを指すものとして理解されることが多い。しかし私は、日常の中に不思議がいっぱいあると考えている。昨日に引き続いて今日も重力があることの不思議。1gのものはいつまでたっても1gであることの不思議。

お風呂の鏡は曇るけれど、どうして水蒸気はあんなに几帳面に、鏡を均一に曇らせるのだろう?ムラがあってもよさそうなのに。なぜ鏡の曇りの水滴は、隣の水滴と等間隔に並ぼうとするのだろう?不思議、不思議、不思議。分かっているつもりのことが分かっていない。知っているつもりが知らないだらけ。

観察力とは、分かっているつもり、知っているつもりのものから不思議を見つける力。それには、「のめり込む」体験だけでは不足。大人自身が子どもと不思議がり、当たり前のことを当たり前と思わず、日常の中から不思議を見つける姿勢が大切。それが観察力を磨くのだと思う。

ナイチンゲールが、観察することによってはじめて体験は「経験」に変わるのだ、と言ったのは、そこなのだと思う。患者の様子が昨日と今日違うところはないのか、その「差分」を見つける。あるいは、今まで気づかなかったことはないか、と探す。それが「観察」なのだろう。

ただ漫然と見て、昨日と変わりないね、で済ますようでは、観察とは言わない。観察は、知ったつもり、分かったつもりの中から「知らない」「分からない」を探す行為。これは、「のめり込む」体験だけでは不足。大人自身が不思議をみつけ、不思議を楽しむことが大切。

子どもが「のめり込む」体験に没頭するのをただ見ているだけではなく、子どもと一緒に不思議がるとよいように思う。ただし、変に先回りしないこと。むしろ子どもの「後回り」をしながら、「そういえば」という形で、大人も不思議を一緒に見つける作業を楽しむとよいように思う。

花を一緒に見た時、おしべをつついて「黄色い粉がついた!これ、なんだろう?」と不思議がる。すると、どの花にも花粉があるのか、子どもは確かめたくなる。「この花、いつも花びらが5枚だね!」というのに不思議がる。すると、子どもは花の種類によって花びらの数がどうなのか気になりだす。

私もYouMeさんも、新たな不思議について子どもと共有するけれど、答えは言わない。そもそも、「答え」というのも、現代の科学が「こういうことが言えるんじゃないですかね?」という「仮説」でしかない。仮説でしかないなら、わかったふりすることもできやしない。所詮仮説なのだから。

仮説でしかないものを答えを知っている風に子どもに言うのは、なんだか違うような気がするので、私もYouMeさんも、めったに言わないことにしている。それよりは一緒に不思議がる。「今、この不思議に気がついた!」と子どもと共有するにとどめる。そして一緒に楽しむことにしている。

こうして、日常の中から不思議を見つけては、一緒に「不思議だねえ」と首をかしげていると、子どもは、当たり前のものから不思議を見つけようとする。差分に気がつき、再びのめり込もうとする。そうして観察眼は磨かれるように思う。

観察眼を磨くには、大人も一緒になって不思議を探し、その不思議探しを楽しむということが大切なように思う。そのことを、「のめり込む」にプラスアルファするとよいのかな、と考えている。

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