言語化お化け 言葉でナタ彫りする人たち

ツイッターやフェイスブックのおかげで「言語化お化け」に出会うことができるようになった。言語化お化けとは、みんな分かっているようでわかっていなくて、言葉にしようと思うと意外と難しい、ついつい世間で語られているような表現しかできないことを、見事に言語化する人のこと。何人も出会う。

そうした言語化お化けを観察していると、興味深いことに気がつく。
言葉を後回しにしていること。
こういうと、言語化お化けと呼んでいることと矛盾するようだが、実際、言葉を操ることをどちらかというと軽視している。言葉にこだわるのは、なんならバカバカしいとさえ考えている様子。

大切にしているのは自分の身体感覚。いま、確かに感じているこの感覚を、他の人に伝えるのはどの言葉を選べばいいのだろう?と、感じていることを何よりも優先し、言葉は必ず後回し。そして言葉は、感じていることの輪郭しかなぞることができない、力不足なものだということを認識している。

自分の感じているものの輪郭を際立たせるには、どの言葉を選べばよいか?ナタ彫りに近い。まずはこの言葉でザクっと切って、輪郭の一部を露出させる。次は別の場所の輪郭を出すために、別の言葉でナタ彫りする。言葉という大雑把なナタで削るうち、伝えたいものの輪郭にだんだん近づいてくる感じ。

大切なことは、感じていることの輪郭を浮かび上がらせることであって、言葉にこだわることではない。輪郭に少しでも近づけるなら、さっきまで使っていた言葉を投げ捨てて別の言葉に切り替えることもいとわない。こうして、伝えたいことの輪郭を浮かび上がらせる。これが言語お化けの作業工程。

言語化お化けが言葉にこだわることがあるとすれば、その言葉が今のところ、感じているものの輪郭に最も肉薄できていると感じるからであって、その言葉に価値があると考えているわけではない。あくまで感じているものこそが重要で、それを意識的に把握するために、輪郭に肉薄する。そのための言葉。

若い頃、私も難しい言葉を覚えたのが嬉しくて、難しい音読み熟語を多用していた時期がある。やれ思想だとか哲学だとか主義だとか。人の話を聞くのを「傾聴」と言ったり、自己肯定感とか自己効力感とか。音読み熟語を多用すると賢くなった気がして。

で、面白いことに、音読み熟語にこだわると、感じていることを優先するのではなく、言葉を優先するようになってしまう。ネットでも、自己肯定感とは何か?という問いが立てられたりする。それは自己肯定感じゃない、とか、これこそが自己肯定感の正しい定義だ、とか。

でもそれだと、言葉の輪郭を決めようとしているかのよう。それは意味がない。大切なのは言葉の輪郭ではなく、現実にあること、現実に感じていること。言葉はそれを把握するのに、人に伝えるのに使う道具でしかない。道具に使われてどうすんねん、というのが言語化お化けの認識。

まず、自分が感じているものがあって、これをどう表現したらいいだろうね?から言語化お化けの作業は始まる。言葉ありきではない。これってどこから手を付けたら言語化できるのかね?どの言葉を使えばいいのかもわかんねーや、というところから始まる。言葉に縛られない。言葉に使われない。

私もそうした言語化お化けを見習って、自分が感じた違和感、これはなんだ?これを表現するにはどの言葉でナタ彫りすればいいんだ?と考え、試行錯誤しながら進めていく。それにより、感じたことの輪郭を削り出す。そうした作業をツイッターでも行っている。

私がそうした「言葉によるナタ彫り」をしていると、不思議なもので、似たものが集まってくるらしい。面白い。自分を言葉で飾る気がなく、自分さえも言葉によるナタ彫りをする人たち。自分も分かったつもりにはなっていない。「へえ、自分とはこういう生き物なのか」と新鮮に驚いたり。

人間というのは、言葉に一種の呪力を感じるところがあって、言葉に縛られるところがある。「優しいね」と言われたら、その人には優しい人としてふるまわねばならない気がして、その仮面を脱げなくなってしまったり。多くの場合、言葉の従僕になってしまう。

しかし言語化お化けの場合、「ああ、こういうタイプの人がこういうシチュエーションでこうしたことをしてもらうと「優しい」と感じるんだ」と、言葉のナタ彫りをしたり、「優しいね、という言葉で相手に呪いをかけ、自分に対して優しい行動だけを暗に求めているな」とナタ彫りしたり。

表面上に飛び交っている言葉に縛られない。現実、事実から浮き上がっている言葉に用はない。現実、事実、たった今感じ取ったことの輪郭をナタ彫りできる言葉は何か、を探す癖がついている。これが言語化お化け。
と、言語化お化けのナタ彫りをやってみた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?