「存在に驚く」、「工夫に驚く」の違い

初めて会う人と仲良くなるのに、こちらが謙虚になり、「驚く」とよい、ということを書いたら「下手に出る」ととる人複数。下手に出れば相手はつけあがり、こちらを見下ろすようになる、ナメられてはいかん、と。
私は「工夫に驚く」ことは「下手に出る」とは違うと考えている。
https://note.com/shinshinohara/n/n2ef37ca51d7a

飲み会での話。「この人、東大なんだよ」と紹介された。紹介された人はイヤイヤ、と言いながらまんざらでもない顔。私は内心、七十歳を過ぎて18、19歳の若造だった頃の学力自慢しても仕方あるまいに、と思いつつ、「そうなんですね」とだけ返事してスルー。

その後も大企業で重役まで行ったとか、何々省の局長まで行ったのは同級生だとか。私は「そうなんですね」と中庸な反応。
「オレはすごい存在だぞ自慢」が一段落ついたところで、私の好きな質問。「その仕事ってどんな工夫をされたんですか?」

それにはこんな方法があってね、という工夫の話になると、私は「ほう、ほう!」と強い反応を示し、「そういう時ってどんなご苦労があるんですか?」などと、工夫・努力・苦労について質問した。すると、そういう話が好きだと察してくれ、そうした話を集中的にしてくれるようになる。

「こういう時、どうしたらいいですかね?」と、少し難しい課題に関して工夫の仕方を尋ねたりすると、一緒に考えてくれる。それじゃうまくいかないと思えた時は素直に「それだとこういう問題が出てきてうまくいかないと思うんですけど、他の工夫がありますかね?」

相手が工夫をいろいろ提案してくれたら「ほう、ほう!他にもありますか?」と、次々工夫が提案されることに驚き、感心しながらさらに促すと、工夫を一緒に考えるスタイルに変わっていく。すると。

自分がいかにすごい存在かを示すことで相手を圧倒しようという姿勢が消えていき、一緒に課題を克服するための工夫の提案合戦みたいになって楽しくなってくる。相手のために一緒になって考え、工夫することが目的に変わっていく。

相手の存在のすごさ、社会的ステータスのすごさに「驚く」場合、いわゆる「下手に出る」ことになり、相手はすごい存在、自分はみすぼらしい存在、という関係性が固まってしまう。これではこっちも面白くない。
私はこれを避けるため、工夫・努力・苦労に「驚く」を推奨している。

相手が見せてくれた工夫を重ねること、努力を惜しまないこと、苦労をいとわないこと、そうした能動的な動きに「驚く」と、ますます能動的に動くことでこちらを驚かそうとしてくれる。能動的なアクションは「存在」ではないから、終わったら消えてしまう。常に新しいアクションが必要となる。

私は特に「工夫」に驚くようにしている。工夫は前と同じでは「工夫がない」。常に新しさが求められる。だから工夫に驚くと、相手はまた新しい工夫をすることで驚かそうとするから、こっちも新鮮で驚かされる。工夫に驚くと、飽きがこない。

驚かれる側は、常に新しく工夫する自分を発見して、楽しくなる。だからそうした関係性を、「オレはすごい存在なんだぞ」を認めさせることで壊したくなくなる。工夫さえすればこの楽しい関係は続くとわかれば、マウンティングはしなくなる。

「さしすせそ」(さすが、知らなかった、すごい、センスある、そうなんだ)が有名だけど。この驚き方は、相手の「存在」をすごい、と言っている面があり、相手を増長させる可能性が高い。それだとこちらはずっと下手に出なければならず、つまらない。

なぜ「さしすせそ」のような、相手の「存在」をスゴイということがよくないのか。それは、社会的ステータスとか学歴とかお金とか、外面的なヨロイで自分を飾ることを相手がやめられなくなるから。そのヨロイをまとい続け、柔らかく傷つきやすい内部を守り続けようとしてしまうから。

「工夫」に驚くのは、「存在」ではなく「アクション」(行動)に驚いている。相手の社会的地位とか学歴とかお金とかではなく、相手がたったいま、どんな工夫を提示してくれたかで驚く。この場合、相手はヨロイを着る必要がない。こちらのために工夫を一緒に考えてくれたことに驚き、喜ぶ。

すると、互いに「素」でつきあえる。社会的な外面、ヨロイをまとわずに、一緒に考えている課題に対し、工夫を言い合う関係。こうした関係を築くには、「存在」をスゴイなどと評するのではなく、工夫という「行動」に「それはナイスアイディア!」などと驚くようにした方がよい。

工夫にはいろいろある。同じ物事を見ていても、その視点はなかったな、という視点の提供。解釈の工夫。アプローチの工夫。こちらのアイディアをさらに練り上げた工夫。さまざまな工夫がある。それに驚くと、一緒に共同で思考する作業が楽しい。

私の弟は作陶家なのだけれど、○○百貨店で個展するってスゴイですね、とか、これが〇〇円で売れるってスゴイですね、と言われると、しらけるらしい。それは弟にはどうしようもない外面的なこと。外面的なことは、弟の内面に起きたことと全然関係ないから、つまらないらしい。

他方、作品を見て、「この作品はいままでのと違ってびいどろがきれいに流れていますけれど、何か工夫をされたんですか?」みたいな聞き方をされると、よくぞ聞いてくれました、と嬉しくなっていろいろ話したくなるらしい。それは、自分の中でも狙っていた工夫。内面の努力に気づいてもらえたから。

工夫、努力、苦労は、内面から発するものがないと実行できない行動。それに驚き、面白がってくれるということは、内面に起きた出来事に気づいてくれた、この人は分かってくれる、という気持ちに人間はなるらしい。だから嬉しい。

しかし、「すごい成績だ」「すごい地位だ」「すごいお金持ちだ」という、「存在」に驚く声は、一方で次のような裏のメッセージを伝えることになる。成績を出せなかったり、地位から転落したり、貧乏になったら、お前には価値がないんだよ、と。

外面的なことをほめたり、驚く言葉は、そうした外面的なものを喪失した時、お前は価値のない人間だ、と言いかねない裏メッセージを受け取ってしまうため、不安になる。その不安を払しょくするため、ますます虚勢を張り、外側を飾ろうとしてしまう。「さしすせそ」は、無意識下で不安を呼び起こす言葉。

私が「工夫、努力、苦労に驚き、面白がる」ようにしているのは、そうした外面的なことに関わりなく、あなたが今、工夫しようとした、努力を重ねた、苦労をいとわなかった、その内面から発する能動性に驚くと、自分の「素」に自信が持てるようになる。外面を飾らなくてもよいことに気がつくから。

引っ越したばかりの頃、庭に大きな岩が邪魔な場所に転がっていて困っていた。弟と動かそうとしてもビクともしない。お向かいの80歳近い方が、材木2本をてこの原理であっというまに動かしてくれた。兄弟して私たちは驚いた。

私たちもてこの原理くらいは知っていた。しかし、頭で理解しているのと体で理解しているのでは雲泥の差。てこで岩を動かすのにどういうコツがあるのかを教えてもらいながらやったら、なんとか私たちでも動かせたけれど、随所に工夫があってビックリした。テコの原理、奥が深い!

私はその農家さんの工夫、知恵にたびたび驚かされた。他方、農家の方も謙虚な方で、私の方が詳しそうなことは相談に見えた。互いに得意技を持ち寄って、工夫を伝え合う関係。実に気持ちがよく、楽しかった。最近、お亡くなりになったのが心から残念。

工夫、努力、苦労は、社会的地位とか学歴とか関係なしに、たった今、行動で示すことができるもの。そして特に「工夫」を凝らすようになると、どんな人も、持てる力を最大限引き出すようになる。工夫は新しいチャレンジであり、楽しいから、自然と頭をフルに活用する。

それに驚く人がいると、ますます工夫は楽しくなる。互いに刺激し合い、これまでになかった方法を試すので、自分がどんどん拡張され、成長していくことが感じられて、よけいに楽しい。存在をスゴイ、というのは成長が止まってしまうけど、工夫に驚くのは成長変化が止まらなくなる。

だから、「驚く」にしても、「工夫・努力・苦労に驚き、面白がる」を、私は推奨している。存在をスゴイという「さしすせそ」は、冒頭の「下手に出て相手を増長させる」になるうえ、相手を「外面を飾らなければ相手を失望させる」という不安を与えるという点で、私はやめた方がよいと思う。

そんなわけで、私は「工夫に驚く」のは、「存在に驚く」のと違って、下手に出ることにならず、相手を増長せることもなく、相手を無意識下で不安に陥らせることもなく、ただただ、クリエイティブに工夫することを楽しみ合う関係を作れるという点で、お勧めだと考えている。

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