「居場所」は必須の栄養素

バブルの頃、仕事から帰ってくると、母親と子どもたちの楽しそうな団らんの輪の中に入れず、居場所をなくした男性の話をよく聞いた。
同じ頃、定年退職した男性が「濡れ落ち葉」になる話も。会社という居場所を失った男性が、濡れ落ち葉のように妻にベッタリまとわりついて離れなくなる現象。

昔、仕事人間だった男性から久しぶりに電話が。日本会議に参加して充実してるという。話を聞くと、貞淑さを失った女性、年上への敬意を欠いた若い世代を嘆き、男性が再び敬意を受ける社会に戻したい、という話をしあっているらしい。そうか、日本会議は居場所のない男性に居場所を提供してたのか。

再びバブルの頃。新興宗教が盛んだった。景気はよいからお金には困らない。しかし、自分を必要としてくれるものがなく、居場所を見つけられない若者が多かった。そんな中、「退廃した社会を正すのは君だ、それが君の使命だ」と言葉をかけられ、居場所を新興宗教に見出した若者は多かった。

私が思うに、人間は「居場所」を強く求める生き物のように思う。そして居場所とは、自分という存在を認めてくれ、自分を必要とし、自分のやるべきことがある場所であるらしい。別にいても構わない、いなくても構わないけど、という場所は居場所にならない。多分、必要とされることが大切。

若くして金を稼ぎ、一生働かずに暮らしていけるだけの財産築いて遊んでいたけど、寂しくなって社会事業に乗り出す人がいる。これは、お金を欲しがる人が群がっても、その人そのものが必要とされず、居場所を見つけられないからかもしれない。社会事業することで自分の居場所を求めるのだろう。

貧困問題の議論で欠けがちなのは、この「居場所」の問題。ベーシックインカムも子ども食堂もフードバンクも、生きるのに必要なお金や食事を提供するところまで。しかしそれらのサービスは、自分を必要とする「居場所」を提供してくれない。むしろ社会が自分を必要としないという所在なさで苦しむ。

私は「人間は働くのが好きな生き物」と最初の本に書いた。理由は、自分が必要とされているという感覚、「居場所」感を人間は強く求めると考えるから。社会を設計する際、「自分は必要とされている」という居場所感をいかに提供するかが課題となる。もしその提供に失敗した場合。

人間は誇りを傷つけられ、いっそ自分を必要としない社会なら壊れてしまえ、という暗い願望に囚われる。居場所が社会的地位の高い人にしか提供されない社会は、たとえ豊かでも不安定化する。

人間は、この世に生まれてよかったんだ、生きていて構わないんだ、という確証がほしいものだと思う。その証明が「居場所」。自分を必要とする居場所があると、自分が生きていて良い確証が得られて安心する。しかし「生きていてもいいけど必要ではない」となると、その無関心ぶりに怒りを覚える。

昔、王様の宴席で、風が強くて灯火が全部消えたことがあった。すると王妃にいたずらしたものが現れた。王妃はとっさにその痴漢の冠の房をちぎり、王様に訴えた。房のちぎれた冠を見れば真犯人がわかる。
しかし王様はそのことをみんなに告げ、全員冠を外させてから灯火をつけ直した。

後日、王様が命の危機に陥ったとき、一人の武者が命がけで王様を助けた。全身ハリネズミのように矢を受け、死ぬ間際に明かしたのは「自分があのときの痴漢でした。しかし王様のはからいで恥をかかずにすみました。あの時から御恩をどうにかお返ししたいと願っていたのです」と言って息絶えた。

同じ王様が別の宴席で。ある家臣の膳に、スープが来なかった。みんなには来ているのに。一人屈辱を味わったその男は、王様の命をつけ狙うようになり、王様は危うく命を落とすところだった。
この王様を巡る2つのエピソードは、「居場所」の力と恐ろしさを教えてくれるように思う。

痴漢をして房をちぎられた男性は、その行為を明かされれば「居場所」を失うところだった。しかし冠を全員外させるというはからいによって失わずに済んだ。だから強く感謝したのだろう(王妃には酷い話だが)。
他方、食事を用意してもらえなかった男は居場所を失い、誇りがズタズタにされた。だから王の命をつけ狙った。

日本の貧困対策の議論で、「居場所」の配慮が欠けがちなのが気になる。実際に子ども食堂やフードバンクをやっている現場の人は、貧困家庭が「居場所」を失っていることに胸を痛めているのに、政治家はそれらの施設を支援するだけでよいことやってるつもりになっている。とんでもないこと。

私が雇用問題を訴えるのもそのため。働く場所があり、社会に貢献できているという感覚は「居場所」につながる。雇用するのは高くつくから子ども食堂やフードバンクへの支援でお茶を濁す、というのは、政治家が「居場所」の深刻さを理解できていない証。居場所を減らせば社会は不安定化する。

誰もが誰もを必要とする社会。誰もが居場所を見つけられる社会。それを目指す必要がある。ベーシックインカムでも欠けがちな視点。お金や生活手段の提供だけでなく、いかに社会が全ての人に居場所を提供するか。そうした社会設計が必要になってきたように思う。

居場所を提供する方法。それは「頼りにすること」「寂しがること」なのかもしれない。
「あなたがいて助かるわ〜。頼りにしてるで!」と言われると嬉しい。人間は頼りにされると、必要とされているようで嬉しい。そういう場所には頻繁に訪れる。やれることはないか、役に立つことはないかと探す。

「最近顔を見なかったねえ。寂しいやんか」と言ってくれる場所は、また来ようかな、と思える。頼りにしてくれる、いないと寂しいと思ってもらえる場所が「居場所」なのかもしれない。フードバンクも子ども食堂もベーシックインカムも、「与える」ことばかりになりがち。でも大切なのは頼りにすること。

どんな人も、頼りにされる場所、いないと寂しいと言ってもらえる場所があれば、そよ社会は安定し、活気のある社会となるだろう。この発想の欠けた社会は、たとえたべることができても不安定化する恐れがある。為政者はそのことを忘れるべきでないと思う。

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