「感謝の請求」と支配構造の企み

阪神淡路大震災で避難所への支援を始めたころ、大阪の地元で議員している人の応援者たちから「俺たちが今後代わってそこを支援する」と言ってきた。親父さんは「避難所は神戸市にいくらでもある。好きなところを支援したらいい」と言って突っぱねた。

少しして聞いたところによると、その議員は震災直後に神戸市に募金100万円を持っていき、あの大混乱の最中に「感謝状を書け」と役所に要求、それを地元に誇って支援活動終了としようとしたところ、私の父が支援活動をずーっと続けているので「何しているんだ」と地元から突き上げ食らったらしい。

対照的な話も聞いた。タイのバンコクにあるスラム街の人たちがナベをたたいて募金を呼び掛け、1000万円を超える募金を神戸市に届けてくれたらしい。しかし震災で混乱する中、よけいな負担をかけてはいけないとお金だけ渡してさっさと退散したという。

スラム街の人たちはそれまで、日本の支援団体から鉛筆やノートなどの学用品を贈ってもらっていたという。「普段の恩返し」とばかり、スラム街の人たちがなけなしのお金を出してくれたらしい。当時、日給500円の時代に1000万円という総額に驚かされる。しかもお礼も何も求めず。

私の母が手遅れの死に病と言われた時。当時の看護師長が機転を利かせ、無理にでも入院させてくれたおかげで、母は一命をとりとめた。両親がその看護師にお礼を言いに行ったところ、「治ってよかったね!もう病気になっちゃダメよ!じゃ!」みたいな感じで、次の患者の面倒を見に行ったという。

「感謝の請求」という現象があって。何かしてあげたら感謝の言葉をよこせ、という圧力。何かしてもらえた側が「ありがとう」と述べることは大切だと思う。けれど人間って不思議なもので、「感謝しろ」という圧力を感じた途端、感謝する気が失せる生き物らしい。しかも、どうもその行為はみっともない。

たぶん。「感謝の請求」は、自分と相手との間に上下の関係を固定化する企みを感じるからかもしれない。自分は感謝される側、相手は生涯その時のことを感謝し続ける弱い立場。そうした関係性を構築しようという圧力を感じるから、途端にみっともなく見えるし、そんなんならしてイラン、となる。

感謝する側として、一番感謝しやすい相手の姿勢は、「お互い様、こっちが困ったことがあったら助けてね」という対等な関係として接してくれているとき。そういう場合は「よし、そんな機会があったらぜひ!」と思う。そういう機会が来たら、むしろ嬉しい。恩返しができる!と。

「感謝の請求」は、善意という、世間から公認されたもので支配構造を作り出し、自分が優位に立とうとする企みを感じるので、まあ、残念に感じるのだろう。そんな支配構造に組み入れられるくらいなら、そんな支援していらん、となる。果たして「善意」と呼んでよいのかも疑問が出てくるし。

作陶家の弟は、たまに陶芸市で店を出すことがある。そのとき、器に何かとケチをつけて、少しでも値段をまけさせようとする客が来ることがあるらしい。「買ってやるんだから」と。弟は「お前に売るくらいなら目の前で叩き割ったるわ!」と、その器を叩き落したことがあったらしい。若い頃。

他方、器を手にとっては値段を見て諦め、立ち去ったかと思ったら、またしばらくして戻ってきて同じ器を眺め、ずっと悩んでいるお客さんが。その時弟は、「いくらまでなら出せますか?」といって、お客さんが出せる値段で売ったことがあるらしい。

前者の値切ろうとしたお客さんは、恐らく買った後で「こんないい器をこの値段で買った」と自慢するタイプ。おそらく作家である弟を若干見くびる発言をしながら自慢するだろう。それが手に取るように見えるから、弟は拒否したのだろう。

他方、買おうかどうか迷っていたお客さんは、きっと器を大切にしてくれるだろう、愛着を持って接してくれるだろう、というのが手に取るように見えるから、「こんなお客さんにこそ大切にしてもらいたい」と思って、弟は売ったのだろう。

人間は結構、社会的に認められている行為を、自分が相手より優位に立つための「武器」として使うことがある。善行とされる行為でも、そうした「武器」として用いられることがある。それを受ける側は、社会的に良いとされる表面的な解釈に惑乱され、どうしたらよいかわからなくなる。

しかし、相手に支配構造を作ろう、マウントをとろうとする意志を感じたら、拒否してかまわないと思う。「俺がお前のためにやってやろうとしているのに、感謝もしなければ拒否までするとは生意気な」と反応するかもしれないが、「いや、上に立とうとするお前の傲慢さはどうやねん」と考えて構わない。

人間は対等だ、と考えたほうが、私たちは楽しく生きられるように思う。対等だから、相手が困ったときには手を差し伸べる。自分が困ったときに相手が手助けしてくれたら、「ありがとう」と言い、また今度、自分が助ける番になろう、と心に決める。それでよいのだと思う。

なんなら、手助けのバトンは相手が違ってもかまわない。先輩からおごってもらった後輩は、自分が先輩になった時、後輩におごればよい。手助けのバトンは、相手が違っても全然かまわない。

私は阪神淡路大震災と東日本大震災で活動したけれど、理由は「いつ自分が同じ目に遭うかわからない」から。お互い様の精神でしかない。「感謝の請求」をして、感謝の言葉を支配構造の証明としようとする企みは、どうも私には共感できないものに映る。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?