読んでもらえる文章を書くには?

文章の書き方を聞かれた。実のところ、私も分からない。私は子どもの頃、作文が大の苦手で、何を書いてよいのか分からなすぎて、弟とオヤツの奪い合いをしたことを不満タラタラで書いたら両親から酷評され(家の恥だから仕方ないか)、そんなだから超苦手意識がある。今も苦手意識は消えていない。

それでもなんだか、私の文章を読んでくれる人が増えたし、世辞かもしれないけど面白いと言ってくれる人が増えた(昔は世辞でもほめられなかった)のを見ると、もしかしたらちょっとはうまくなったのかもしれない。ただ、私はそれをうまく言語化できていない。ほぼ無意識で書いてる。これは危険。

言語化できていなければ、将来、「オレは文章がうまい」という意識だけ生き残って、つまらない文章をダラダラ書くようになる可能性があるから。文章の書き方をどこかで言語化しておかないと、私は将来、自己イメージだけ肥大化したヘタクソ文章になる恐れもある。でも、まだ言語化できてない。

ピース又吉さんが面白いことをラジオで言っていて、「上手い文章の書き方は分からないが、たくさん本を読んでいると、表現の良し悪しはわかるようになる。書いてから読者の一人として読んでみて、面白いかどうかをチェックする」というような話だったと思う。これはわかる気がする。

上手い文章書こうとして書けるものではない。とりあえず書いてしまう。書いたあと、自分の文章がヘンかそうでないか、読者として見てみる。すると、ここはなんかわかりにくいとか、何を言いたいのか分からないとか、気がつく。で、アカンところを直せば、文章はマシになる、というのはあると思う。

私の場合、「物分りが悪い」のが功を奏してるかも。私は甚だ物分りが悪く、「ん?今の、あっちにもこっちにもとれる言葉だけど?」と混乱する。文脈から読み取る、行間から察する、というのが苦手で、言葉の字面に支配されやすく、「これはこんな話だな」と読んでたのに違うのが現れると大混乱。

ものすごく物分りの悪い自分に説明するつもりで書くと、わかりやすい文章になる。
あ、そうだ。物分りの悪い私がどんなことで混乱するか、言語化してみたらいいか。
①前置きが長いと分からない
私は物分りが悪く、前置きが長くなると何の話をしていたか分からなくなる。だから「要するに」が大切。

前置きが長い人は、どうやら自分がそれを理解した過程を全部たどらないといけない気がしてるらしく、こちらが「要するに?」と促しても、「だから」と言って、もう一度同じ説明を最初から繰り返されることが多い。私はあんまり話が長いと、何のテーマだったか忘れる。記憶力に乏しい。

だから私は、私という物分りの悪い人間を納得させるため、「要するに」を大切にしてる。まずはざっくり、間違うことも恐れずに単純化する。単純化した上で、例外とか注意事項とかは後で付け足す、というふうにしている。こうすると、物分りの悪い私でも理解しやすい。

②音読み熟語は使わない
「寝る」という訓読み熟語を「睡眠」と言ったり、「押す」というのを「押下」と言ったり、音読み熟語になった途端に読みにくくなる。うーん?何?となる。日常会話では、音読み熟語というのは、音が被りやすいからあまり使われない。たとえば。

「ほうこう」という言葉だけでも、方向、芳香、咆哮、彷徨・・・と、無茶苦茶ある。音読み熟語は同音異義語がありすぎて、日常会話では無意識に避けられている。だから、音読み熟語というのは、書き言葉になっても不慣れなものだから、「ん?」となりやすい。

だから、音読み熟語をどうしても使いたいなら「あっちの方向」「ウロウロと彷徨した」などと、修飾する言葉をつけた方が、初めて目にする言葉でも、なんとなく意味を察することができる。でもどうせなら、「ウロウロとさまよった」と、訓読みの言葉の方がやっぱりわかりやすい。

③一つのツイートから一つ持ち帰ることができるか
「長い前置きが苦手」に通じてるけど、そのツイート一つ読んで、ただ解説で終わってると、つまらない。私は途中で飽きて読まなくなる。読みたくなるツイートは、一つのツイートに一つ、気づきがある。すると、次のツイートでも気づきが期待できる。

④同じことを違う視座から眺める
私は物分りが悪く、一種類の説明だと腑に落ちないことが多い。で、説明を求めると、全く同じ説明が繰り返されることがある。こういうときは本当に、わかったようで分からない。何種類か別の視座から眺めた説明があると、立体的に捉えられてわかりやすい。

⑤具体的事例がない
論理的な話って、ついてくのしんどい。具体性がないと、言葉に肉がなくて、実感がわかない。なるほど世間でそう言われてるかもしれんけど、コピペ感があって、どこかで聞いたようで退屈。
ところが具体的事例を挟むと、途端に話が血肉を帯びる。熱さ、におい、触感が生まれる。

論理的な話って、定義のしっかりした言葉を使うから話が広がらない。話す人の敷いたレールの上をひたすら歩かされる感じで、イヤになる。けれど具体的事例が出てくると「そういえば」と自分の体験も呼び起こされて、途端に膨らみを帯びる。他の事例と繋がり合い、話がネットワーク化する。

⑥言いたいこと多すぎ
「これを話すならあれも話しておかなくちゃ」と、あれこれたくさん話す人の話はわかりにくい。要領を得ない、というやつ。ツイッターでも「これに言及がない」とツッコむ人が必ずいるけれど、そんな人の相手マトモにしてたら話が全部百科事典になってしまう。

わかりやすく書くには「何を書かないか」が大切。何を話したいかではなく、「何さえ伝わればよいのか」が大切。基本、話は一個だけ相手に伝われば御の字。2個伝えようと欲張らないことが大切。だから、何を話すかより何が伝わりさえすればよいかを考え、あとは捨ててしまう。

⑦専門用語使いすぎ
これは、音読み熟語がわからんというのと同じで、専門用語というのは、専門外の人にはわかりにくい。専門の人しかいないなら、むしろ専門用語の方がわかりやすく、話が通じやすいのだけど、専門外の人が混じる場ではむしろ専門用語は聞いたことない外国語。わからん。

賢いフリをしたい人は専門用語を多用する。でも、ツイッターのように専門外の人がたくさんいる場で専門用語にこだわるのは滑稽。専門用語が分かる者同士で、分からない人を「勉強不足」と見下したいのかもしれないけど、専門用語を日常用語に訳すことに未熟なだけではないか?という疑念あり。

専門外の人もわかりやすく、専門家も満足できる文章は可能。私が思うコツは、日常用語のあとにカッコ付きで専門用語を書く。たとえば「試行錯誤の中で失敗も含めて学習させる(深層学習、機械学習)」というように、日常用語で書いた言葉の後ろに専門用語を書くと、専門外の人はカッコを読み飛ばせる。

よくあるのは、上とは逆に、専門用語のあとに日常用語での説明をカッコ書きするやつ。論文とか専門書ならそれもいいけど、読むリズムが狂う。カッコの中を読まなきゃいけないから。そして初めて出会う言葉を覚えきれないまま読み進める苦痛を味わうから。それよりは、日常用語で統一して表現した方がよい。

一貫して日常用語で押していくのだけど、専門家には、一度カッコ書きで「こういう意味で言ってますから」と断り書きする形。この方が一般の人はつまらずに読めるし、専門家は日常用語を専門用語に置き換えて読める。

⑧相手に合わせて話さない
昔、「朝まで生テレビ」で観客席から東大生が発言。けれど新聞やテレビで聞いてきたような話のコピペ。パネリストから「自分の言葉で話せ、自分の意見を言え」と言われて、その東大生は「これは私の意見です!」と怒っていた。でも私にもコピペにしか聞こえなかった。

その学生が自分の言葉で話せていない、というのは、当時学生だった私にもわかった。けれど、自分の言葉で話すというのがどうすればよいのかは分からなかった。
何年か前、教育のことで長年議論してきた人に「自分の言葉で話すってどういうことでしょうね?」と聞いてみたら。

「相手に合わせて言葉を選べることじゃないですかね」と言われて、膝を叩いた。
自分の言葉で話せない人は、自分の聞いたように、読んだようにしか話せない。まさにコピペ。しかし自分の言葉で話せる人は、相手が首を傾げてる様子なら、別の言葉に置き換えて話すことができる。

わかりやすく書ける人、話せる人は、自分の知ってる他の言葉に置き換えて説明することが可能。同じことを、別の言葉で話せる。
わかりやすい文章の場合、大切なことの場合、同じことを複数の表現で伝えてくれる。複数の表現があるおかげで、こういうことか、というのが見当つく。

⑨オチを見定めて書いてない

この文章全体は最終、どこにオチが来るのか?それがなんとなくわかる文章は読み進めやすい。事例を重ねるのも、オチを補強する材料なんだな、と感じると、事例一つ一つも面白く読める。けれど、「話をどこに落ち着かせるつもりやねん?」というのが見えないとつらい。

概念の説明に似ているかも。

「銀色です。でも赤くなったりします。超純粋だとさびません。電気通します。磁石にくっつきます。包丁になったりします。融点は1500度くらい。これは何かというと、「鉄」です。」

オチに向かって事例を重ねる場合は、推理小説読み進める感じになる。けれど。

要するに何を言いたいのか?というオチが見えないと、事例を重ねられてもつらい。なんのための事例なのかわからなくてついてくのがしんどくなる。文章を書くときは、「このオチにたどり着くための事例重ね」という意識で文章書く必要があるように思う。

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