個別具体的な話は普遍性があり、普遍的な表現は空疎という矛盾

ツイッターをやってて不思議に思うこと。
「具体的な話の方が、人間はどうやら普遍性を感じる仕組みがある」ということ。
今回、ピアノの習い方についてつぶやいたら、多くの方から反応があった。面白いことにピアノ経験者だけでなく、スポーツや学校の勉強になぞらえて考える人の多かったこと。

具体的な話って、読み進めるうちにそれを追体験するような気分になる。すると、自分がかつて経験した記憶が呼び醒まされ、「そういえば自分にも」となるらしい。全然違う分野なのに、意外な共通点を見出して、「これはひょっとして普遍的な現象なのでは?」と反応する人が多くなる。

これが、特定のジャンルの話をせず、具体的な話を一切せずに「初めて習うときには楽しさを」と言っても、ピンとこない。そんなつぶやきはろくに反応がこないだろう。具体性がなくて、自分の体験もろくによびさまされることもなくて、「ふーん」で終わる。

皮肉なことに、あらかじめ論点を整理し、無駄のない論理で要領よくまとめた文章は、人の心に訴えない。それが果たして普遍性のある話なのかも検証する気が起きないくらい、響かない。その場でつぶやいただけの、一個のつまらない見解に過ぎなくなってしまう。

しかし具体的な事例を紹介すると、「あったあった!それ、自分も似た経験がある!」という声が出てくる。ごく狭い分野の一例でしかないはずなのに、多くの人の共感を呼び、多くの人達の経験が紹介され、それは実は分野を超えた普遍性の高い話なのだと見えてくることが多い。

だから私は、なるべく具体的な事例を紹介しながらつぶやくことが多い。その方が多くの声を聞くことができ、その現象が狭い分野の偶然の現象に過ぎないのか、もっと広い分野であてはまる普遍性の高い話なのかを検証することができる。

普遍的な表現を好む学問では、個別具体的な話を普遍的であるかのように語ることを嫌がる。その様式を知っているから、「それはその分野でしか起きない特殊事例でしょ」「それはあなたの個人的体験でしかないでしょ、それを敷衍するのは無理があるよ」と反駁する人は多い。
しかし実は科学も。

ミミイカという海の生物は、体内に微生物を飼い、その微生物が一定以上の密度に増えると光るクオラム・センシングという現象が知られていた。これだけ聞けば、光るイカの、光る微生物という特殊な現象だと片付けたくなる。けれど微生物学者は「もしこれが普遍的な話だとしたら?」と考えた。

すると、病原菌の多くが、自分の仲間がたくさんいるかどうか(菌密度)を感知する仕組み(クオラム・センシング)があることがわかった。数が少ない間は毒素を作らず、大人しくしているが、数が増えると毒素を作り出し、牙をむく。病原菌に変身する。

光るイカという特殊事例だと片付けず、「そういえば病原菌も数が増えないうちは毒素を作らないな」と、自分たちの体験を思い出して、普遍性のある現象かも、と気がついた。個別具体的な話って、普遍的現象を発見するのにとても効果的であるらしい。

私達はこれまで、客観的で抽象的な文章の方が、個別具体的な話より高尚であるように教えられてきた。これはある種、やむを得ない面もあるだろう。昔は文章を発表できる人は限られていて、紙も高くて、短い文でなるべく多くのことを含蓄する表現を求められたからだろう。

けれど、ツイッターをはじめとするネットの文章は誰でも発表できる。リアルタイムで多くの人の目にさらされる(査読)ことになる。いくら文章が長くても、読者の根気がついてくるのであれば、一向に差し支えない。ならば、客観的抽象的な文章にして誰もピンとこないより。

個別具体的な話を紹介して多くの人の思い出を刺激して、たくさんの意見を百出してもらって、そうした反応もひっくるめた形で普遍性を引き出した方が面白いように思う。
ツイッターは、個別具体的な話の普遍性、という新たな特徴を浮き彫りにしたのかもしれない。

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