「しつけ(躾)」考

子どもの身勝手な様子を見ると「しつけがなっていない」とされることがある。子どもがガマンできないときも「しつけがなっていない」。で、子どもをしつけようと、我慢させたり叱ったり。でもうまくいかなくて悩む親御さんは多いように思う。

幕末・明治初めの頃に日本に滞在した欧米人の記録に、興味深いものがある。子どもを叱ったりムチで罰することもせず、子ども達はのびのびと遊んでるのに、いつしか大人と同じ振る舞いを身に着け、躾(立ち居振る舞いが美しい)が身についていることに驚かされている欧米人の多いこと。

欧米ではキリスト教の「原罪」の意識が強いためか、原罪の意識に乏しい子どもの天真爛漫さは罪深く感じたらしく、身勝手な振る舞いをムチでしばいて矯正するというのがまだまだ一般的だった。ただ、ルソー「エミール」が教育に新風を吹き込みつつあった。しかしまだムチをやめられずにいた。

ムチを使用することなく、めったに子どもを叱ることもなく、子どもの様子をニコニコ見守るだけで、いつしか子ども達は自然と大人びて、大人の立ち居振る舞いを身に着け、いわゆる躾(立ち居振る舞いが美しい)ができた状態になるのが、一種、不思議に思えたらしい。ルソーを知らずして実践してるから。

ところが日本はいつしか欧米流の教育法を変に輸入して、おかしくなってしまった感がある。昔は叱らなくても「そのうち子供らは勝手に覚えるさ」と鷹揚に構えていたのが、余裕を失い、小さな頃からしつけようとする。そしてうまくいかずに悩む、という、幕末頃の欧米人状態に陥っている。

幕末頃の「躾」と、現代日本での「しつけ」は、意味合いが大きく異なるように思う。現代の「しつけ」は、ほぼイコール「調教」と感じる。犬や、サーカスの動物を、叱りつけたりムチで脅したりして言うことを聞かせよう、思い通りに動かそうという、古典的イメージの調教。

しかし実のところ、犬やサーカスの動物達でさえ、ムチで言うことを聞かすのは難しいだろう。もしムチで言うことを聞かせようとしたら萎縮するばかりで、ライオンを火の輪くぐりさせるなんて無理だし、ゾウに小さな台に立たせるのもムリ。「そうしたい」と動物に思わせるのが大切。

幕末頃の日本の子どもたちは、遊びの中でいろんな職業の大人のマネをして遊んでいたという。大名行列だったり、飛脚のマネをしたり、商売人のマネをしたり。そうした遊びをするのは、大人の立ち居振る舞いに敬意があったからだろう。遊びを通じて憧れの大人たちの立ち居振る舞いを身に着けたのだろう。

つまり、大人たちの立ち居振る舞いが美しい(躾)から、自然と子どもたちは憧れ、遊びの中に取り入れ、「〇〇屋さんごっこ」を通して、大人の立ち居振る舞い(躾)を自然と身に着けていったものだろう。強制的に強いられたわけではなく、憧れから能動的に身に着けたようだ。

これこそ、ルソーが「エミール」で示した、欧米人にとっては驚きの教育法だった。子どもをムチでしばいて言うことを聞かせようとするのではなく、子どもが自然な感情で、こうしてみたい、ああなってみたい、と能動的になるように大人は環境を整えるとよい、という欧米にとっては新学説。

恐らく欧米の人たちも、伝統だからムチでしばいて言うことを聞かせよう、躾(≒調教)ようとしていたけれど、限界を感じていたのだろう。どうもうまくいかないし、残酷だし、他の方法はないものか、と。ルソーの提案した教育法は、徐々に欧米に受け入れられるようになり、浸透していくことになる。

ところが幕末の日本人は、まさに欧米の最新学説を地で行っていた。子どもを思う存分遊ばせ、天真爛漫に過ごしているうち、大人の立ち居振る舞い(躾)を覚えていく。当時の日本の大人たちは、教育学なるものを知らなくても、子どもは遊びの中で自然に立ち居振る舞いを覚えていくものだと知っていた。

ところがどうしたわけか、欧米の古くからの子どもの調教法とでも言うべき「叱る育て方」が日本に輸入され、影響されていったらしい。まだルソーの教育法は欧米でも浸透しきっていたわけではなかったからかも。かくして、欧米は幕末日本化し、日本は昔の欧米化し、という逆転現象。

息子がようやくお座りできるようになった、まだ0歳児の頃、チラシを広げて新聞を読むかのような構えをしていて面白かった。私が新聞を広げて読んでるのを見て、マネをしたのだろう。チラシの文字が逆さになっていたから余計に面白かった。

子どもと言うのは、大人が楽しそうに日々を過ごしていたら、自然と真似たくなるもののように思う。子どもの方から「これはどうすればいいの?」と聞くようになり、少し教えるだけで一所懸命に真似ようとする。それをニコニコ笑って見ているだけで、子どもは自然とうまくなっていく。

うまくやれなくても、やろうとしなくても、「そのうちできるようになるよ」と鷹揚に構えていたら「そのうち」をなるべく早めたい、と子どもはむしろ躍起になる。
息子は時折、大人のやるような箸の持ち方をしようとしている。しかしなかなかうまくいかない。私は教えようとせずに、次のように伝える。

「手が小さい間は難しいよ。大きくなれば自然にできるようになるさ」。実際、息子の様子を観察すると、子供用とはいえ箸が太くて、大人のようには指を配置しにくいらしい、というのがみてとれた。けれど、この言葉かけには、一つ、狙いがある。「大きくなれば」という言葉。

焦らなくても大きくなればできるんだ、という安心感を与えること。すると面白いもので、子どもはなるべく早くその時を迎えようとする。憧れが強くなるから、練習を欠かさなくなる。息子は時折、親が言わないのに箸の持ち方を練習している。早くに大人と同じ持ち方しても自在に動かせるようになろうと。

しつけ(躾)というのは本来、「身の美しさ」と書くように、「かっこいい!」と同義語だと考えて構わないと思う。だとすれば、子どもの中に憧れの気持ちだけ灯るようにすれば、子どもは自分から早くそれをできるようになろうと練習する。やれと言わなくても、急がなくていいよと言っても、練習する。

子どもの中に憧れの気持ちを灯すにはどうしたらよいか。それを考えて、大人自身の立ち居振る舞いを考え、子どもへの声掛けを抑制的に、「焦らなくていいよ」といえば、子どもは自ら「躾」(かっこいい立ち居振る舞い)を身に着けようとする。

躾は、しばき倒して強制的に教えた通りの振る舞いをさせる、恐怖による調教で身につくものではないと考える。それよりは子どもに憧れの気持ちを灯し、「焦らなくていいよ、そのうちできるから」と安心させれば、かっこいいと憧れ、自ら身に着けようとするもののように思う。

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