「どうせなら」が観察眼を鋭くする

「観察」考2。
私たちは「どうせ」と見捨てているもの、バカにしているものは見えなくなる。観察できなくなる。情報がとれなくなる。このため、拒絶か嫌悪という対応しか取れなくなる。観察眼を取り戻すには「どうせなら」という発想が大切であるらしい。

ある女子大生が、トイレを卒論のテーマにした。当時、トイレと言うのは汚くて臭いものだった。どうせ下のことをいたす場所なのだから仕方ない、「どうせ」トイレだと考えていた。ところがその卒論は卓抜していた。トイレが汚いとその観光地のリピーターがいなくなることを明らかにしていた。

逆にきれいなトイレの観光地は、リピーターが多かった。当時は女子トイレが少なく、汚いところも多かったので、「二度とあそこには行きたくない」となる女性が多かったらしい。トイレをバカにせず、「どうせなら」と、よく観察することで見抜けた現象だった。この卒論からトイレがきれいになり出した。

ナイチンゲール以前は、看護師という職業はさげすまれていたという。患者の血や膿、吐いたもので服が汚れ、そのままの格好でいる貧しい人がやる職業だったため、そうしたイメージがついたらしい。汚れた服でいるのも「どうせ」汚れるのだから、という発想だったのだろう。

しかしナイチンゲールは衛生学に基づき、患者の衣服やベッドのシーツも、汚れたらきれいに洗う、自分たち看護師の服も汚れたらその都度洗う、ということを徹底した。その結果、患者の死亡率が激減した。実は、患者の多くは、不潔な環境で病原菌に二次感染して死ぬ人が多かった。

「どうせ」血や膿で汚れるのだから、と諦めるのではなく、「どうせなら」患者にも自分たち看護師にも心地よい環境は何か、という視点で観察し、工夫し、改善を図ることで、病院という世界を劇的に変え、看護師は尊敬される職業に変わった。

憎むべきもの、忌むべきもの、嫌われて当然、という「どうせ」の精神では発見や気づきは生まれず、工夫や改善も起きない。
『経験をもたらすのは観察だけなのである。観察をしない女性が、50年あるいは60年病人のそばで過ごしたとしても、決して賢い人間にはならないであろう。』ナイチンゲール

映画「おくりびと」の原作にもなった「納棺夫日記」。遺体を洗い、棺桶に納める仕事。筆者は納棺夫をすると言ったとき、親族から勘当されてしまったのだという。
筆者は「どうせなら」、亡くなられた方にも、遺族の方々にも快適な納棺を行おう、と心に決めた。

まるで医者のようにきれいな白衣に身を包み、丁寧に遺体を洗い、丁重に棺桶に納めた。すると次第に、その作業の様子を見て、手を合わせる人が現れたという。「私が死んだら、あなたに納棺してもらえないだろうか」と頼む人も。やがて講演依頼が来るようになって、本を書くきっかけともなった。

「どうせ」と思っているうちは、発見も気づきも工夫も起きない。しかし「どうせなら」何か工夫はできないか、何か改善できることはないかと観察すると、様々な気づきや発見が得られる。「どうせなら」の発想は、観察眼を非常に鋭くする。

私の塾はあまり成績のよろしくない子どもが来ることが多かったので、入塾面接では親が「どうせ」この子は、といった断罪をしながらの話が多かった。その間、子どもは不服そうに、なんでこんな場所に連れてこられなければならないんだよ、という顔。

私は「どうせなら」という発想で、その子を観察するようにしていた。部活をしていたら部活の話を、帰宅部だったらどうして帰宅部になったのかのいきさつを、好きなマンガがあればその話を、アニメならアニメ、野球なら野球、その子のことを「どうせなら」なんでも見てやろう、と。

否定せず、その子から何かしら情報が得られたら喜び、面白がる私を見て、大概の子どもは心を開いてくれた(まあ、初対面だから全面的にではないけれど)。あ、この人は親の悪口を散々聞いても、その悪口さえ「特徴」としてとらえ、評価軸で断罪したりなどしないのだな、と安心してくれた。

ラポール(親愛の情を相手に感じさせること)の形成は、比較的簡単だと思う。相手を評価軸の上に乗せようとせず、ただ相手の特徴を発見し、話を面白がり、気づきを楽しんでいれば、「この人は自分のありのままの姿をそのまま受け止めてくれる」と感じ、心を次第に開いてくれる。

評価って、子育てで必要なのかね?と思うことがある。子どもの意欲をそぐし、何より指導する側の観察眼を曇らせることがある。いや、評価と言うより、「断罪」が問題なのだろうか。評価軸のどこに位置するかを見て、バカにするかほめるかを決めるという、「断罪」が。

私の中で学校の成績と言う評価は、観察対象の一つでしかないので「ふーん、あ、そう」という反応。参考にする、と言いながら、忘れる。それよりは目の前の子どもそのものを観察し、その子の変化、特徴に気づくことを大切にしている。そちらの方が、工夫する方法が見えてくるから。

その子を観察し、今できる工夫、試行錯誤を繰り返すと、いつの間にか成績も上がっている、という感じ。成績は結果として伴うが、それよりは目の前の子どもを観察し、気づきや発見を楽しみ、工夫や思考錯誤でさらに楽しんでいれば、それだけでよいように思う。

「どうせなら」どう料理してやろう?どんな工夫や思考錯誤を凝らしてやろう?そのためのきっかけづくりに、なにか使えそうなものはないか?と観察し、しゃぶりつくすように情報を得る。五感を通じて。なんでも気づいたことは列挙する。すると、「これならどうだ!」というのが思いつく。

「どうせなら」は、観察眼を鋭くする重要なテクニックかもしれない。私は、ヒマだなー、つまんないなー、と思ったら、目の前のもの、あるいは自分の身体感覚を観察して楽しんだりしている。観察は、いつでもどこでも楽しめるゲームのようなものだと私は考えている。

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