「理性教」を完成させはしたけれど

私が学生の頃は、哲学思想といえばカント、ヘーゲルが代表格だった。この二人の著作は、哲学の中でも特に理解が難しいとされる。そんな難解な哲学が、なぜ代表格とみなされるまでにあがめられたのだろうか。私の考えでは、この二人は「理性教」の完成者だったからだと思う。

ルネッサンスとほぼ同時に起きた事件に、宗教改革がある。ルターが始めた新教(プロテスタント)と、昔ながらの旧教(カソリック)が罵り合い、殺し合う事態に発展した。同じキリスト教徒なのに。人類を導く唯一 正しい教えがキリスト教だと教えられてきたのに、それが2つに分裂してしまった。

何が正しいのか人々がわからなくなる中で、キリスト教とは違う形で正しい思想を打ち立てられる可能性を示した人物がいる。それがデカルト。
デカルトは、ありとあらゆる考え方を否定しきった後に正しそうな概念だけをチョイスして思想を再構築すれば、間違いのない哲学を作れると提案した。

人間の理性の力を使えば、キリスト教に頼らなくても正しい思想を作り出せる。この画期的なアイデアは理性教とでも呼べばよさそうな、理性を信頼する考え方を生んだ。いわゆる合理主義。
けれど、理性というのはそんなにカッチリしたものでもない。いろいろ問題もあり、限界もある。

カントやヘーゲルは、理性の限界を明らかにすることで、いかに合理的に物事を考えられるようにするかを提案した。その意味で、二人は理性教の完成者だと思う。デカルトが創始者、カント、ヘーゲルが完成者。

けれど、今の認知科学から見ると、誤りも多い。その主著である「純粋理性批判」とか「精神現象学」の内容を全部正しいと思い込んで読むのはかなり無理がある。

私にとってカントやヘーゲルを学ぶ意味は、その後の社会に、歴史に、どんな影響を及ぼしたかという点だ。私の考えでは、カントやヘーゲルが完成させた「理性教」は、キリスト教が十分機能し得なくなった部分を補う代用物となった、そんな風に思う。神様がいなくても人間は自分で考えるように。

この「理性教」の登場で、のちのニーチェが「神は死んだ」と宣言できる状況が生まれたように思う。神なき世界で人間はいかに生きていくのか、ということを、ニーチェは考えるようになった。これが可能になるためには、理性教が完成する必要があったのではないか、と思う。

ニーチェにとって世界とは、カントやヘーゲルが完成させた「理性教」が支配する、クソ面白くもない世界だったように思う。高杉晋作が「おもしろきこともなき世をおもしろく」と歌っているけれど、ニーチェもこれに近いように思う。

なぜニーチェは、生きることを面白くないと考えたのだろうか?それには、カントやヘーゲルの「理性教」だけでなく、ニュートンの万有引力の法則が関係しているように思う。万有引力がすべてを支配し、予定通りに宇宙が運行する世界。こんなつまらないことはない、と考えたのではないか。

昨日も今日も、そして明日も、万有引力の法則通りに宇宙は運行する。こうした退屈な世界観をニーチェは「永遠回帰」と呼んだのではないか。その退屈な世界を、あえて選び取る「超人」になろう、とニーチェは呼びかけた。

この「超人」という発想は、神の代替物として受け取られた面があるようだ。キリスト教が人々を導く時代が終わってしまい、みんなめいめいに好きなように生きてよい「理性教」の時代に入ると、どう生きていってよいのやらわからなくなった。そんな中、「超人」は「こっちだ!」と自信をもって指し示す。

こうして、神の代替物としての「超人」思想が、ナチズム、ヒットラーのモデルになったのではないか、と言われている。私もそのように思う。超人思想を生み出すその土台に、カントやヘーゲルの完成させた「理性教」が、図らずもなってしまったように思う。

今の認知科学や心理学では、カントが指摘したような理性や悟性といったものは、そんなカッチリした形で存在はしておらず、人間は感情だとか体調とかで容易に理性が揺れ動くものだと考えられるようになっている。しかも。

フロイトやユングといった心理学者によって、理性(意識)は無意識という大きな海の上に浮かぶ小さな小舟でしかないことを明らかにした。カントやヘーゲルは、理性に基づく壮大な哲学思想を構築したはずなのに、それは無意識の海に浮かぶ小舟、楼閣でしかなかったという事実!

そうした歴史の流れの中でカントやヘーゲルを位置づけると、彼らの業績をもう少し別の視点から見つめ直すことができるように思う。彼らの完成させたはずの「理性教」は、すでにかなりズタボロになってしまっているのだから。

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