観察が経験を生む

『経験をもたらすのは観察だけなのである。観察をしない女性が、50年あるいは60年病人のそばで過ごしたとしても、決して賢い人間にはならないであろう。』ナイチンゲール

出張中のラジオで聞いた言葉。
ああ、ホンマやなあ。

トシをとって、今は自分の思いに酔わない、溺れないように気をつけている。それよりは目の前のものをよく観察するようにしている。
若い頃は自分の着想に喜び、酔い、それを補強する言葉や論理を紡いで悦に入っていた。しかし自分の思いに酔い、溺れると物事が見えなくなることがわかった。

何より、現実というのは「おもろい」ことに気がついた。高尚な哲学と卑近な出来事、というように、現実を低く見、自分の思念を高尚なものだと思いたがってる間は、現実がどれだけ面白いのか、見えなかった。

コロナ感染者が少なければ参加するようにしてるムシムシ会。初めての開催の時、事前にハイキングだと聞かされていた。開始から一時間後。まだ同じ場所にいた。足元の草むらにひそむ生き物、頭上の木々を見てるだけで一時間たってしまった。足元にどれだけの宝物がつまっているか、知らなかった。

私たちは、観察を怠ると「路傍の石」化が進むようにできている。見慣れた景色は意識に上らないようになる。道端の石ころになど目もくれずに会社へと急ぐように、私たちは見慣れた景色を、すべて知り尽くしたような顔して通り過ぎる。そこにはまだ見知らぬ世界が、宇宙が広がっているというのに。

幼児はよく「ねえねえ、これは何?」と聞く。あるいは「なんで?」と聞く。大人はつい、自分の知識を披露してしまう。「それはね、こういうものなのだよ」。子どもはその解説でわかった気がしてしまう。そしてそれ以上関心を持たなくなってしまう。観察しなくなり、「路傍の石」と化す。

私は子どもから聞かれたとき、「なんだこりゃ?」と一緒に不思議がる。観察し、気づいたことを言い合う。観察を楽しむ。答えを求めるのではなく、知った気にならずに、観察し、そこから汲み取れるものを汲み取り続ける。

レイチェル・カーソンは、その著書である「沈黙の春」を読むと、生物や化学物質の名前がわんさか出てくるのに驚かされる。
ところが「センス・オブ・ワンダー」では、甥のロジャーに生き物や岩石の名を教えようともしない。「リスさんのクリスマスツリー」と、二人だけにわかる名前で呼んだり。

カーソンは、物の名前を知ることは重要ではない、という。それよりも大切なことは、自然や生命の神秘さ、不思議さに目を瞠(みは)り、驚く感性、センス・オブ・ワンダーこそが大切だという。物事の不思議を面白がること。それが何より大切なのだと。

面白がれば興味が湧く。すると、自然に観察眼が鋭くなる。知識を持つより、名前を知るより大切なこと、それは面白がること、そして観察することなのかもしれない。

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