農家が儲かるには非農家の存在が必要

江戸時代の思想家、安藤昌益は、武士のような搾取者のいない、すべての人間が農業を営む、農民だけの社会を夢見ていたという。搾取する者がいない社会!農民ばかりの社会!それは農業研究者からすれば、素晴らしい社会のように思われる。しかし。

農業以外に目立つ産業のない国は凶作が起きると大飢饉となり、多数の餓死者を出すことが多い。他方、農業以外の産業、工業やサービス業が発達する先進国は餓死者が出ることはない。なぜ農業国で餓死者が出て、工業国は飢えずに済むのか?不思議で仕方なかった。

アマルティア・セン「貧困と飢饉」を読んで氷解した。農民ばかりの国は、農作物を買ってくれる非農家がいない。となると、農家は現金を手に入れる機会がない。自給自足近い生活となる。そんなときに凶作が起きると貯蓄がろくにないから、やむなく家や畑を売るしかない。しかしみんなそうだから。

大して値がつかず、はした金しか手に入らない。そんなお金ではすぐに使い果たしてしまう。その結果、どうしようもなくなり、餓死者が出てしまう。すぐ隣の地域には食料があるのに。何ならすぐ目の前の店先に食料が売られているのに、それを手に入れるお金がないために。

他方、工業など、非農業が発達している国では、購買力のある消費者がいる。農家はブランド化した農産物を作ったりして、それなりに儲けることも可能。現金を貯めることも可能。凶作があってもその現金で食いつなぐこともできるし、何ならお金の力で外国から食料を輸入することも可能。

工業などの非農業が榮えている国はお金が稼ぎやすいために餓死者が出にくくなる。また、お金があれば道路を整備し、新聞を買い、TVも買える。するとマスコミという非農業の職業も成り立ちやすい。もし飢饉が起きてる地域があれば、マスコミがそれを大々的に知らせてくれたりする。

しかし農業しか産業のない国は道路を作るお金もない。新聞もテレビも見ることができない人が多くなる。するとマスコミも機能しにくい。飢饉が起きても、奥まった交通の便の悪いところだと実態をつかみにくく、飢饉が進行してしまう。お金という潤滑油がないために、飢饉が深刻化しやすい。

食料を作っているはずの農家が飢饉で真っ先に餓死してしまうことが多いのは、農業以外の産業が育っていないから、という皮肉な構造がある。農業以外の産業、例えば工業が発達していると、農家も売り先に困らず、現金を手に入れやすく、儲かるから多少の不作でも耐えられる。

また、工業国だと農業以外の稼ぎがあるため、農家に補助金を出すことも可能。欧米先進国は、非農業の産業から得られた税金で農家への補助金を出している。それによって農家は生活していける。しかし農業しか産業がない途上国では、農家に補助金など出すことは無理。

農家が豊かになるには、非農業の産業が発達している必要がある。
一見、非農業の人たちは農家が作る食料を食べるだけの搾取者に見える。しかし非農業が稼いだお金が社会の潤滑油になり、不作で食料の足りない地域に食料を運ぶことが可能になる。

安藤昌益の唱えた社会を実現しようとした国がある。カンボジアのポル・ポト。国民全てを農家にしようとした。それを理想の国家だと考えた。しかし皮肉にも農業生産も低迷、国も貧しくなった。長く繁栄から取り残されるようになった。

農家が豊かになるには、非農業の産業が発達している必要がある。非農業の力を農家の生活向上に役立てる必要がある。すると、農家だけでなく非農業も活性化する。農業と非農業は、互いに互いを繁栄させる補完関係にある。

だから、農業だけを考えてはいけない。逆に言えば、非農業は農業のことを忘れてもいけない。互いに互いを必要とする補完関係にあることを忘れないようにしたい。

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