空虚のデザイン

部下育成本を書いているとき、子育てになぞらえるって、「いい大人を子ども扱いするな!って、叱られないかなあ」と思った。子育て本を書いているときは「人間を微生物に例えるな!って、叱られないかなあ」。そう、私は、大人も子どもも微生物も、「言うことを聞いてくれない」点で同じと考えている。

言うことを聞かせようとすると言うこと聞かない。けれど、部下を見事に動かす上司、子どもを見事に導く保育士、微生物を見事に制御する研究者や農家がいる。ということは、「言うことを聞かない」存在にも、何かしら、法則めいたものがあるに違いない。

共通するのは、「言われたら動かない」ということ。命じられ、あっちに動け!と受け身で仕方なく動かされようとする場合、部下も子どもも微生物も精いっぱいの抵抗をする。一時は仕方なく動いても、その後、テコでも動かなくなる。

しかし、共通して、動く時がある。それは、「自ら能動的に動く時」。人から制せられるような受け身だと動かないのに、自分からそっちに行ってみたいな、と思ったら、部下も子どもも微生物も能動的にそっちに進む。

水を丸くしたり四角くしようとする場合、水を叩いたり殴ったりしても、決して丸くなったり四角くなったりしない。しかし、水が自ら能動的に丸くなったり四角くなったりすることがある。丸い空虚、四角い空虚を設けること。すると、水は自然にその形になる。能動的に。

ならば、部下も子どもも微生物も、能動的に埋めたくなるような「空虚」を用意したりすればよいのではないか。それが、最初に書いた部下育成本、次に書いた子育て本、そして私の本業の微生物学の、骨子。

つい、上司や親は、部下や子供を自らの腕力でこね回し、望みの形に成形しようとしてしまう。自分が能動感(自己効力感)を味わいたくて。ところが、こねくり回された部下や子供はよい迷惑。能動的どころか、受け身だから、ちっとも楽しくない。達成感がない。達成感は上司と親だけが味わう。

私は「空虚」を用意する。部下や子どもに、なるべく教えない場所を用意する。答えが導きやすいよう、ヒントは提供するが、今の本人の力なら、こうじゃないか、という仮説を導き出せるだろう、というところは、本人に任せる。すると、本人の口から「こうしたほうがよいのでは?」という提案が出る。

「それ、いいね!」と私が驚く。すると、部下や子供は、こっちの方向でいいんだ、と安心すると同時に、自信が湧く。「じゃあ、それでやってみてください」というと、自分が言い出したことだから、やってみたくなっている。意欲的にその空虚を埋めようとする。

いかに空虚を用意し、それを能動的に埋める楽しみを味わってもらうか。それを意識している。これは微生物にも同じ考えで接している。

私が指導する学生に、いつも出すクイズ。「邪魔な木の切り株がある。これを微生物の力で取り除くには?」よくある答えは、木の成分を分解する微生物を見つけて、それをぶっかければ、というアイディア。しかしその方法では、ぶっかけた微生物は3日もすると、土着微生物に駆逐される。

しかし面白い方法がある。切り株の周りに肥料をまく。すると、切り株は数か月でボロボロになる。土着微生物の分解を受けて。なぜか。
肥料には、炭素以外の養分がすべて含まれている。すると、土着微生物で足りない養分は炭素だけ。炭素さえあればパラダイスなのに。

「炭素、あるじゃん!」木の切り株が炭素の塊だと気付くのは、すぐだろう。土着微生物のうち、切り株から炭素を切り出すのが得意な微生物が活性化し、他の微生物は、その微生物に炭素以外の養分をせっせと運んでやる、協業が始まる。こうして切り株はボロボロになる。

これは、肥料をたっぷり撒くことで、土着微生物にとって、疑似的に「炭素欠乏」の状態を作り出したからだ。炭素が欠乏しているなら切り株から炭素を取り出そうじゃないか、という行動を促している。炭素と言う欠如、空虚を埋めさせている。私はこの手法を「選択陰圧」と呼んでいる。

人間の言うことを聞いてくれないように見える微生物群集でさえ、「空虚」を用意すると、その空虚を埋めようと能動的に動き出す。この原則は、微生物だけでなく大人や子供にも当てはまると考えている。

だから、私は微生物学から子育てや部下育成のヒントを得たり、逆に子育てや部下育成の観察から、微生物学へのヒントを得たりしている。私にとって、こうした境界を隔てて理解することはあまり意味がない。双方向的。

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