法律はその内側に自由を担保する必要がある

現代を生きる私達は、法律を守るのは当然だと考えている。国は法律を定め、法律は誰であっても守らなきゃいけないものだと考えている。こういう法律で治められている国家を法治国家という。しかし法律で国を運営することは、昔は必ずしも当然ではなかった。貴族には守らなきゃいけない法律がなかった。

管仲は、国を富ますには法律が重要だと考えた。それまでは貴族がその日の気分で税金を取り上げたりするもんだから安心して商売できなかったし、庶民は貯蓄もままならなかった。そこで管仲は法律を定め、貴族も勝手に法律を破ってはいけないことにした。この結果。

商人は安心して商売できるようになり、斉国の経済が活性化した。貴族の気まぐれで庶民の生活が壊される心配がなくなったことが、国を富ました。
秦の国を強大にしたのも法律だった。商鞅(しょうおう)は法律を定めたのだけど、なにせ貴族の気まぐれで何度も騙されてきた庶民は信じない。そこで。

立てかけた木を指定の場所に動かした人間には大金を与える、という看板を出した。しかしみんな本当とは思わない。試しに動かしてみた男が現れた。そしたら本当に大金を渡した。そこからみんな法律を信じ、守るようになったという。商鞅は次々に法律を定め、国が豊かになるルールづくりを進めた。

こうした、法律を特に重視した思想家たちを法家というけれど、その完成者とも言えるのが韓非という男だった。その著書「韓非子」は、後に始皇帝になる秦王を感動させ、臣下として迎え入れようとしたけれど、荀子の兄弟弟子である李斯(りし)が妬み、韓非を殺してしまう。

しかし李斯も、「韓非子」から大いに影響を受けたのかもしれない。彼自身が法律をバンバン定め、秦が中国統一を成し遂げるのに貢献した。
しかし天下統一後、法律は暴走し始める。あまりにも細かく決められすぎて、守ることができなくなってしまった。

陳勝という人物は、都に労働者を届ける役目を命令されたのだけど、大雨で川を渡れず、期日までに到着することは不可能になった。法律では、締切を守れないのは死刑と定められていた。陳勝はもはやこれまで、と覚悟を決め、反乱を起こした。これがきっかけで、秦は瞬く間に崩壊した。

なぜ1人の貧しい男の反乱が、秦という強大な国を滅ぼすことになったのか?法律が細かすぎ、そして厳しすぎたからだ。庶民は法律の多さと厳しさに辟易していた。このため、劉邦が首都を支配したとき、法律は3つ(殺人、傷害、盗み)だけにすると宣言したら、庶民は拍手喝采。

これには、「韓非子」や、それを実行した李斯の「性格」も影響したように思う。「韓非子」を読むと、「人間なんてどうせこんなもの」という、人間を見下げ果てた気分を感じる。「韓非子」で紹介されている、有名な話に「塀が壊れた話」がある。

近所の人が「塀が壊れているよ、そのままにしていると泥棒が入るよ」と忠告した。自分の息子も同じことを言った。それでも放置していたら、本当に泥棒が入った。息子には「先見の明がある」とほめ、近所の人には「あいつが盗んだのでは?」と疑いの目を向けたという。

同じ忠告をしたのだとしても、人間関係の近さで印象が変わる。人間なんてそんなものだ、という空気が、「韓非子」にはとても充満している。人間のこと、あまり好きじゃないな、という気がする。性悪説で有名な荀子の弟子だったことも影響しているかもしれない。

そんなだから、「韓非子」や、その影響も受けたであろう李斯は、「人間なんか法律で縛りゃいい」と考え、法律がどんなに細かくなろうと、どれだけ刑罰が厳しくなろうと、気にしなかったのだろう。それが秦という国を滅ぼすことになった。

次の帝国である漢は、流石に法三章とまではいかないけど、法律をあまり細かく定めず、ざっくりとした法律の中に自由を確保するようにした。それが長く帝国を維持した大きな理由だったのだろう。

法律は、おおらかに定めると、人々はその中の自由を楽しめるようになる。サッカーは手を使っちゃいけないという奇妙なルールがあるけれど、みんな嬉々として従う。ルールの内側に、色んな足技を開発できる自由があるからだろう。その自由を追究する楽しさを見つけるからだろう。

法律を定める場合は、その内側に自由が確保されていなければならない。そのことを「韓非子」は十分に把握できていなかったように思う。法律の強さだけを信じて、法律が有効であるには自由を担保しなければならないことに気づいていなかったのだろう。その点、管仲は優れていたのかもしれない。

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