「当然だろ」人の「ありがとう」は有難味がない

(ありがとう、を言うようにしても自分のために周囲が動いてくれることがないので面倒くさくなったという意見に対し)
面白いことに、「魂胆」って相手に伝わるようで。
2人の対照的な学生がいました。二人とも「ありがとう」をきちんと言えるのですけど、周囲がますます世話を焼きたくなる学生と、こいつの世話なんか二度としたくない、と思われてしまう学生と。実に両極端の反応に分かれました。私は興味深く観察。
すると、前者の学生は、全ては自分の責任であり、全て自分の力でやり遂げる、という覚悟を持っていて、好意に甘え続ける意思は微塵も持っていませんでした。しかし人が好意を示してくれたら、それがどんなにささやかなものでも手放しで驚き、喜び、感謝しました。こうした学生には、
みんなもっとやったげよう、と、ますます支援に力が入っていました。
他方、絶対コイツの世話だけは焼きたくない、という反応を招く学生は、言葉では「ありがとう」と言うのですけど、「もっとこうしてくれればいいのに」と、不満げな様子が伝わりました。そればかりでなく、
「次はこうしてほしい」と注文までつける始末。このため、一度は可哀想だと思って助けた人も「私はあんたの奴隷じゃない!なんであんたの世話なんかするもんか!」と、嫌われていました。
「ありがとう」で大切な要件、それは、相手にこれ以上世話になっては申し訳ない、もし二度と世話してもらえなくても自分で頑張る、という覚悟を持ち、その上で、そんな私に好意を見せてくれた奇跡に驚き、感謝することなのだと思います。
これに対し。
いささかでも相手の行為を「当然だろ」みたいな態度が見えれば、たとえ言葉の上で「ありがとう」と言っていても、人間はどうもこの辺を敏感に感じとるらしく、「有り難い、なんて思ってないだろ、当然だと思ってるだろ、なんなら足りない、不満だと思ってるだろ」と、ムカッ腹立ってくるんですよね。
相手の好意を「奇跡が起きた」と驚き喜び、「こんな幸運は二度と来るはずがない」と考え、感謝するのか、「この程度のこと当たり前だ、むしろこの程度でしかないのか」と不服に思うのか、それで大きな分かれ目になるようです。「ありがとう」という言葉だけではなく、態度がどうも大切。
YouMeさんが高校生の頃、バスでおじいさんに席を譲ったところ、以後、YouMeさんの席のそばに必ず立つようになったそうです。席を譲ってもらおうと思って狙い撃ち。YouMeさんはそれがイヤ過ぎて、ついにバスの時間をずらしてまでそのおじいさんを避けるようになってしまったとか。
おじいさんはもちろん、席を譲ってもらったら「ありがとう」と言ってくれるわけですが、完全にYouMeさんをアテにするようになっていたわけです。高校生のYouMeさんは「自分の了見が狭いのか?ありがとうと言ってもらえるのになんでこんなにイヤなんだろう?と悩んだそうです。
悩んだあげく、どうしてもアテにされるのがイヤだと感じたYouMeさんは、バスの時刻を変えざるを得なくなったわけです。
私は、高校生だったYouMeさんの気持ち、よくわかるし、無理もないと思います。人間はどうやら、好意をアテにされる、当然視されると奴隷になった気分になるようです。
実際、他人の好意をアテにしてる人間は、言葉の上では「ありがとう」と口にしても、「席を譲るのは当然だろ、早く席を譲れよ」と、事実上強要してるわけです。そのおじいさんは高校生のYouMeさんに自由意志を許していない時点で奴隷化していると言えます。
人間は、好意をアテにしてくる人間、当然視してくる人間に対しては拒否したくなる生き物。そうした生き物であることを自覚した上で、他者との関係性を構築する必要があるようです。
人間はアアノジャクな生き物のようで、好意をアテにされると「絶対お前のために動くもんか」となり、好意をアテにせず、自分の力で頑張ろうとしている人間を見ると「少しでも助けになってやろう」という気持ちになるみたいですね。

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