能動性は後天的に奪われる

能動的な人間は生まれつき能動的、そうでない人間を能動的に育てることはできない、というご意見を頂いた。しかし私は全くそれに同意できない。赤ちゃんは恐ろしく能動的だからだ。言葉を話せとも言わないのに言葉を話し、立てとも言わないのに立とうとする。恐るべき能動性。

能動性は、むしろ後天的に奪われるのだと思う。子どもが言葉を話せるようになると、大人は先回りして教えたくなる。よかれと思って。子どもにたくさんの知識を身に着けてほしいと願って。自分にできなかったことを子どもに成し遂げてもらおうと思って。ところが、先回りされた子どもの方は。

ゲッソリする。興味を示した途端に「それはね」と親が先回りし、たくさんの情報を与えてお腹いっぱいにする。子どもは「もういらない」になる。子どもは先回りされると、次第に能動性を失う。面白くなくて。推理小説を読み始めたら真犯人やトリックを教えられてしまったようで、ひどくつまらなくなる。

子どもは恐らく、親や大人を驚かせたい生き物。言葉が通じる前は、親も教えることを諦めてる。だから、教えもしないのに立ったり言葉を話したりできるようになることに驚く。子どもはどこかで、親が自分の成長で驚いてくれたことを覚えているのだと思う。

幼児の口グセは「ねえ、見て見て」。これは、「こんなこともできるようになったよ!」と、自分の成長で親や大人たちを驚かせたいという言葉。子どもの能動性は、かなりの部分、親や大人たちの驚きを燃料にしている。なのに先回りしてしまうと。

親はその技術や知識のことをよく知ってる、ということを、子どもは悟ってしまう。それができたとしても親は驚かないことも察してしまう。それどころか、「それができたか、じゃあ次」と、さらに先の方へと進めと追い立てられるだろうことも予測してしまう。だから子どもはやる気を失ってしまう。

人間は能動性がなく生まれるのではない。能動性をほとんどの子どもが備えているのに、それを奪われる経験を積み重ねた結果、受動的になってしまうのだと思う。
しかし、真の意味で能動性を完全に失うわけではない。マンガやテレビ、ゲームには能動的になる。なぜか。

親が先回りしないものだから。むしろ止めようとするものだから。子どもは親を驚かせたいから、むしろゲームやマンガに走ることで親の「意外」に突き進みたくなる。親を驚かせたいという欲求が歪んだ形で現れるのだと思う。

それでも人間は、能動的に生きたい、能動的になることで驚かせたい、という欲求を失わずにいるものだと思う。スタッフや学生に対し、先回りせず、むしろ「後回り」し、その人が前に進んだ時に驚くようにすると、短期間に能動性を回復する。あ、自分で考えて動いても構わないんだ、と気がついて。

構わないどころか、能動的になればなるほど驚き、喜んでくれる人がいるんだ、と気がつくと、どんどん能動的になっていく。自分から能動的に動くと驚いてくれる人がいる、となると、人はどんどん能動的になることが楽しくなってくる。人間は、能動的に動くことが楽しいようにできてるように思う。

そう考えるから、冒頭の「生まれつき能動的な人間は一握り」という考えは、明白な間違いのように思う。人間はもともと能動的。受動的な人のようでも、多くの人が能動性を取り戻したいと願っているものだと思う。上司がそれをいかに引き出すか。そこがポイントではなかろうか。

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