「~してあげる」考

「〜してあげる」に本来、上から目線の意味はない、というご指摘があった。それはそうだと思う。「あげる」はもともと「差し上げる」から来ていて、目上の人に自分がへりくだって言う時の言葉だったのだと思う。しかし現代の意味は、やはり上から目線の言葉のように思う。「貴様」に近い変化かも。

「貴様」も本来、相手を高貴な人間とみなして自分はへりくだる呼称だったはずだけど、軍部の人間が「貴様!」呼ばわりするようになってから、人を攻撃する際に使う呼称になってしまった。使用するシチュエーションが変化したことで意味が変化してしまった事例。

私も敬意を抱く人がある時、「シナ(支那)」と言った。その人によると、この表現は中国一帯の地域を表す呼称であって、侮蔑的な意味はない、と仰っていたので、私は「では先生のことを『貴様』と呼んでいいですか?侮蔑的な意味はもともとないので」というと、ブロックされてしまった。

息子が言葉を話し始めた時、私が仕事から帰宅すると「ただいま!」と迎えてくれた。「おかえり」と間違えたわけだけど、「誰かが家に入ってきたタイミングで言う言葉」としては間違っていない。人間はどうやら、使用されるシチュエーションで言葉を理解するらしい。

人工知能の研究者が学会発表で講演しているのを見たことがあるけれども、ご自身の3歳の子供がゴミをゴミ箱に捨てる様子を見て驚愕したエピソードを紹介していた。人間はシチュエーションから何をなすべきか、あるいはどういう言葉が適切かを理解するらしいと発表していた。

そう考えると、言葉を言葉で定義することにはあまり意味がなくて、その言葉がどういうシチュエーションで使われているかが決め手になるのだと思われる。
その流れから行くと、「〜してあげる」という言葉はもはや「〜してやる」とほぼ同じ意味になっているように思う。

「〜してやる」は元々「〜して遣(や)る」で、目上の人間が目下の人間に恩恵を施してやる、という意味の言葉。「〜してあげる」はもはや、かつての「〜してやる」と同じシチュエーションで使われている。ほんのり違う点は、「〜してやる」のわかりやすい傲慢さは表向き隠れているというだけ。

もし部下が上司に「〜してあげます」と言ったら「お前ずいぶん偉くなったな、何様だ」というふうに怒るだろう。「〜してあげる」が、強者が弱者に恩恵を施すという意味で使われるようになったことの反映のように思う。

教育系の雑誌でインタビュー受けると、私の言葉は大概「〜してあげる」に変えられてる。私はそれをことごとく修正してもらっている。どうやら教育業界では、教える側が子どもに対して「〜してあげる」ことを当然視する考え方が下敷きにあるらしい。そのために自然と「〜してあげる」が出るらしい。

しかし「~してあげる」は、こちらが与える側、子どもはその恩恵をありがたく受けとる側、という考え方を踏まえている。大人がそんな姿勢でいると、子どもは受け身になり、能動的にはなれなくなる。大人の恩恵にひたすら感謝すべき物乞いの立場に置かれることになる。

子育ての目的は当然ながら、大人の庇護から離れ、誰かのためにその力を活かす、能動的な生き方ができるようにすること。なのに子どもを一方的に受け取る側とみなす「〜してあげる」は、子どもの自律や能動性を奪う思考のように思う。

確かに「〜してあげる」は甘美な響きだ。自分は施しをしてやれる強者であり、智者であると陶酔することを許される気分になる。教育系雑誌は教師向け、親向けに作られてるから、そうした人達の耳に心地よい言葉として、「〜してあげる」を多用するのは、雑誌を買ってもらうという目的に合致している。しかし。

「~してあげる」という言葉は、子どもの自発性、能動性を引き出すという本来の教育の目的ととても相性の悪い姿勢を前提にしている。教える側が提供するばかりで、子どもはその恩恵をひたすら受け取る側、という姿勢が、子どもの成長にはむしろ悪影響のように思う。

私は代わりに「〜してもらう」を多用している。子どもから何かを提供してもらう立場に、なるべく自分を置く。そうすることで子どもの自発性、能動性は促されると考えているから。私は子どもから施される恩恵に驚き、喜ぶ立場。

子どもは「~してあげる」ことが大好き。それで大人が驚き、喜んでくれるなら、ますますハッスルする。ならば、「~してあげる」という喜びを大人が強奪することなく、子どもに譲るのが大人のつとめのように思う。それにより、子どもの成長や能力開発を促すのが吉のように思う。

もちろん、大人である私も子どもに働きかける。しかしそれは子どもから「〜してもらう」ための刺激に過ぎない。果たして「〜してもらう」ことができるかどうかは子ども次第。もし「〜してもらう」ことができなくても、それは子どもに委ねていることだから諦めるしかない。それで終わり。

しかし「~してあげる」だとこうはいかない。「〜してあげたのに〜してくれなかった」と不満を持つ。つまり「〜してあげる」はしばしば、「提供」するだけではなくて「返却を強制する押し売り」だったりする。恩恵を施したのだから返すのが当然だろ!と、借金でがんじがらめにしようとする企み。

このため、私達は「~してあげる」という考え方の人と対すると気が重くなる。いらぬ親切大きなお世話と感じつつ、押し売りされた恩恵を何らかの形で返礼する(感謝する、尊敬してみせる、屈従の姿勢を見せる)必要を迫られて、気が重くなる。

残念だけど、多くの教育雑誌では、この「〜してあげる」で子どもをがんじがらめにし、勉強することを返報として期待する、というテクニックを自慢気に紹介してる記事が多い。しかしこの手法は逆効果になる。「〜してあげる」は、感謝や返報を求める押し売りであることを子どもも見抜くから。

見抜いた上で気が重くなり、「~してあげる」の押しつけがましさに反発したくなる。しかし大人の側は戸惑う。これだけ「~してあげる」を努力してるのに、ちっとも感謝しない!恩知らずだ!と子どもを恨む。自分が勝手に押し売りしたことを忘れて。

「~してあげる」は、いわゆる毒親的姿勢を増やした元凶の一つのように思う。「~してあげる」側の親や教師は恩恵を施している気満々だけれど、子どもからしたら、感謝を期待された押し売りと感じ、自分を拘束する呪いの言葉のように感じるのだから。教育系雑誌は「~してあげる」を猛省してほしい。

大人ができることは、子どもの自発性、能動性を促すような刺激を与えることにとどまる。その刺激を受けて子どもがどう反応するかは子どもに委ねるしかない。ただ、子どもがその結果として「〜してくれる」ことが起きたとき、その奇跡に驚くことになる。喜ばずにはいられなくなる。

子どもが大人に「~してあげる」ことで大人は子どもに「~してもらう」関係を構築できたとき、子どもは能動的に能力を開発することになる。大人はひたすら子どもの能動性の発生という奇跡に驚き、喜ぶ「反応器」になる。それが望ましいように思う。

教育雑誌はそろそろ「〜してあげる」の害悪に気がつき、修正するようにしてほしい。もし著者がまだ「〜してあげる」を使おうとするなら、私の記事を見せて考え直してもらうようにしてほしい。「〜してあげる」は、子育てに相性の悪い姿勢のように思うから。

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