「関係性のデザイン」のコツは?

関係性から考えるものの見方(社会構成主義)の第四弾。歴史から「関係性のデザイン」を学ぶことについて。

歴史上、「関係性のデザイン」が実に巧みだった人物に晏嬰がいる。晏嬰がまだ若い頃、当時の総理大臣が王様を殺すクーデターを起こした。

総理大臣は兵士に剣や槍をきらめかせて、もし今回のクーデターに異論を言うものがいたら刺し殺してやる、という無言の圧力をかけた。宮殿の誰もが黙りこくり、うなだれた。そんな中、晏嬰が現れた。晏嬰は抜き身の剣や槍など目に入らないかのように突き進み、王の遺骸に取りすがり、慟哭した。

散々泣いたあと、王の遺骸に改めて深々と頭を下げたあと、再び剣や槍の山が目に入らないかのようにその場を立ち去った。
晏嬰以外の臣下は、剣や槍ばかり見て、クーデターの首謀者である総理大臣の目ばかり気にして、いかにこれから総理大臣との関係性を作るかばかり考えていた。

また、クーデターを起こした総理大臣も、自分に逆らう人間が出ないか、その関係性ばかり見ていた。
しかし晏嬰はあえて総理大臣のことなんか眼中にないかのように、ただ亡くなった王様を嘆き悲しむ、という「関係性」をデザインした。さすがに総理大臣も、その倫理的行動を咎められない。

しかも王様の死を嘆き、喪に服すという名目で宮殿に顔を出さなくなった。総理大臣も伝統に基づいたこの行動を咎められない。他の大臣たちが、クーデターの首謀者との関係性にばかり目を奪われていた中で、晏嬰の「関係性のデザイン」は世の注目を集めることに。

晏嬰は斉の国の使者として楚の国に来た。使者をからかい、追い出してやろうと考えた楚王は、門の脇にある犬用の扉を開けて「ここをくぐってこい」と言った。
仮にも国の使者とあろう者が犬の門をくぐったとあっては、国の名誉に関わる。しかし怒って帰国したら使命を果たせない。どうする晏嬰?

「楚の国が犬の国と言うならこの門をくぐろう」と返事した。この一言で「関係性」がガラリと変わった。それまでは楚王が使者をからかうだけの関係性だったのに、もし晏嬰がくぐるのを許すと楚が犬の国であることを認めてしまう関係性にシフトされてしまった。楚王は仕方なく正門を開けた。

楚王は悔しくて、さらに意地悪を考えた。一緒に宴会してる席に斉国出身の泥棒を引きずり出し、「この者は楚で盗みを働いた。斉の人間はみな泥棒なのか?」と笑った。これは、晏嬰が楚王に頼み事を持ってきたことを泥棒呼ばわりする懸詞(かけことば)にもなっていた。

もし晏嬰が慌てて「いや、斉の人間にも泥棒はいますが真面目に働く者が大半です」とかまともに反論しても、楚王は次の攻め手を用意してるだろうから、そのまま言葉に詰まる恐れがある。ついには使命を果たせなくなる恐れも。絶体絶命の晏嬰、この危機をどうする?

晏嬰は次のような話を始めた。「カラタチとタチバナという植物をご存知でしょうか。同じ植物なのに、川の北側と南側の違う場所で育てると、葉の形も実も全然異なる植物に育ちます。土が違うからです。斉では泥棒がいないのに、楚で泥棒になるのは、楚は人間を泥棒にする土地なのでしょうか」

斉の泥棒の件を申し開きするしかない関係性に追い込まれた晏嬰、しかしカラタチとタチバナの話を加えることで、楚が泥棒を育ててしまう土地かもしれない、むしろ申し開きをしなければならないのは楚王の方、と、関係性を逆転されたことで楚王は「もうからかわない」と反省、晏嬰は見事使命を果たした。

私はこうした晏嬰のエピソードを読むとき、「もし自分が同じ立場に置かれた場合、どういう心構えを持つと晏嬰と同じ対応ができるのだろう?」と考える。何も準備していないとシドロモドロになる。かと言って、相手が何を仕掛けてくるか分からないから前もって準備するのも限界がある。

私なりに出した一つのコツは、相手の作り出した構造、関係性をそのまま利用して、少し追加を加えることでその関係性が相手に逆襲を加えるようにデザインする、というもの。
それを実践できた事例がある。ある職員が会議の席で吊し上げになることになっていた。幹部は会議でその職員の罪の数々を列挙。

居並んだ他の職員たちは、幹部の覚悟を見てだんまり。吊し上げの対象となっていた職員が何を言っても全部罪の根拠に変えられていく。しかし新人の私には、吊し上げされてるその職員の言い分にも一定の理があるように思われた。あまりにもかわいそう、理不尽。これのバランスを取るにはどうしたらよいか?

私は「あの〜、質問が」と手を挙げた。「この職員は、安くて大量に作れる、いわば大衆車のカローラを開発したんですよね。ところが営業が連れてきた顧客は、フェラーリやカウンタックみたいなスーパーカーをお求め。で、皆さんはこの職員にスーパーカーを作れと要求、それを満たさないと怒ってる。」

「もしこの例えが成り立つのだとしたら、悪いのはスーパーカーを作れない職員ではなく、見当違いな顧客を連れてきた営業の方ではないでしょうか。もしそのお客さんを選んできたのが幹部の方だとしたら、謝るのは職員の方ではなくて、幹部の皆さんの方ではないでしょうか」

この私の質問?発言?で会議は大混乱。職員を一方的に責めていた幹部の皆さんは「いや篠原君、そうではなくて」と防戦一方、責められていた職員は「まさに私の言いたかったこと」と攻勢に転じ、しかしここが潮時と考えたのか、「私は退席させて頂く!」と部屋を出ていった。会議は混乱のうちに終了。

私は後で幹部の一人から「あんなこと言ったら左遷させられるよ」と脅された。私は、自分のいまいる職場以上の左遷先ってあるのかな?と思いながら「私は新人だから、会議でみなさんが話してることをもとに質問しただけですけど?」とトボけた。まあ、事実だし。

結果的に、職員へのお咎めはなし、幹部も少し恥をかいて痛み分け、という落着点に。職員にすべての責任をなすりつけるという理不尽は実行されずに済み、遺恨を残さずに落着したのはよかったと思う。私は新人だから事情をよくわからずに発言したのだ、ということで私にもお咎めなし。

新人という立場の人間の発言だったからこそ、関係性をガラリと変えることができ、それだけに発言を咎め立てすることもできない、というデザインができた。「関係性のデザイン」がうまくできた成功例の1つ。

「関係性のデザイン」のためには、まず、今の関係性がどういう構造になっているのかを観察すること。そのうえで、どんな一工夫を加えれば関係性が変化するか、仮説を立ててみる。そして、試してみる。それの繰り返しで次第に臨機応変的にワザを繰り出せるようになってくるのだと思う。

まあ、元々が不器用だから、タカがしれてるのだけど、昔の不器用ぶりから考えると、ずいぶんマシになったように思う。そういう意味で、「関係性のデザイン」は面白いアプローチのように思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?