「路傍の石」化・・・見ているのに見えなくなる現象

「観察」考3。
塾の子どもらを海に連れて行くと、そのうちの一人が「何にもないやん!コンビニは?ゲームセンターは?」そんなもんない、海で遊べばいいやん、と言うとガックリ肩を落とし、持参の携帯ゲームやマンガを読んで過ごした。他の子どもらは「エビが!魚が!」と大騒ぎしてるのに。

その男の子の父親は自動車からテレビを出し、クルマに備え付けの冷蔵庫から冷えたビールを取り出し、家の空間さながらの楽しみを始めた。父親によると「小さな頃から子どもを自然の中に連れ出した」という。ボーイスカウト歴は子どもと一緒に10年にもなるという。

しかし、同じくらいボーイスカウト歴がある別の子どもは海辺で遊びまくり、キャンプファイアーの準備に薪を集めたりなど、自然の中の遊びを満喫してるのに、その父親の息子は自然と戯れるどころか「何もない」と言って、ゲームをやる有り様。不思議に思って父親の話を聞いてみた。

すると、どうやら父親は早くキャンプ地について一杯ひっかけたいために、子どもが道中で草木や生き物に興味を持っても「自然の中なら当たり前、さあ行こう」と、さっさと通り過ぎていたらしい。キャンプ地に着いたら子どもにはゲームとマンガを与え、自分はお酒を楽しむ。全然自然を楽しまなかった。

どうやら子どもが関心を持ってもそれを引き離し、関心を持たないようにし向けてしまうと、「路傍の石」に化してしまうらしい。ありふれた当たり前のものになり、目に入っても「珍しくもない」と言って興味を持てなくなってしまう。

他方、同じくらいボーイスカウト歴のある別の子どもは、岩礁に巻き貝がたくさんついてるのを喜び、影を作ってはヤドカリが転がるのを楽しんだり、イソギンチャクに小石を入れてペッと吐き出すのを面白がったり。様々な発見をし、釣りでも工夫し、焚き火を楽しんだ。

自然への観察眼が全然違う。親が関心を持たず、子どもが関心を持つのを無視する親の元だと、子どもも興味関心を失い、「路傍の石」化して、観察する価値のない背景になってしまうらしい。他方、子どもの興味関心をそのまま楽しむと、子どもは自然から様々なものを発見する観察眼が備わるらしい。

「路傍の石」化した自然や生命の不思議さに、再度興味関心を呼び起こすことは可能だろうか?
「トム・ソーヤの冒険」に、面白いエピソードが載っている。おばさんからペンキ塗りを命じられたトム。面倒だな、と思ったが、トムは一計を案じた。

トムは壁のペンキ塗りを、さも楽しそうに塗り始めた。そこに通りかかった友人。「なんだ、トム、ペンキ塗りさせられているのか」と笑った。するとトムは「ペンキ塗りというのは奥深い仕事なんだ」と取り合わず、熱心にペンキ塗りを続けた。
それをしばらく見ていた友人。「なあ、俺にもやらせろよ」

トムは「ダメダメ、ペンキ塗りはいい加減な気持ちでやれるような仕事じゃないんだ」と言ってやらせようとしない。すると無性にやってみたくなった友人、「このリンゴをやるからさ!」トムは渋々、「ちょっとだけだぞ」と言って、ペンキ塗りを許した。

「そこの塗りが甘い、そう、そこは丁寧に」とかトムに言われて、なんとかコツをつかもうとする友人。そうこうするうちに他の子どもらも通りかかり、みなやりたがり、トムにプレゼントを渡してはペンキ塗りを順番待ちするように。トムは偉そうに指示しながら、みんなからプレゼントをせしめた。

このトムの策は示唆的だ。夢中になっている様子、興味関心が強くてずっと魅入られている様子を見ると、人は「何を見ているの?」と覗き込みたくなる。「これは君にはちょっと難しいんじゃないかな」「君にはまだ早いよ」と軽く挑発されると、ムキになってやってみたくなる。興味関心が増す。

私は職場で時折これをやる。「これ、最初からうまくできる人はあまりいないので、まあ、気楽にやってみてください」と言うと、習得が早い。私が驚くと、学生さんやスタッフはちょっと得意げ。「それはできても、これはちょっと難しいかなあ」と言いながら次のを渡すと、それもこなしてしまう。

「これ、何が起きているんですかね?」と私が首をひねっていると、「こういうことではないですかね」と仮説を述べてくれる。「おお、それは気づきませんでしたね、だとすると、こういうのはどうですかね?」とやり取りすると、目の前の現象から様々な情報をくみ取ってくれるようになる。

トムと同様、目の前の現象に私自身が興味関心を持ち、時には「これはあなたには難しいかも」とちょっと挑発したり、「私にはわからない、あなたは気づいたことある?」と訊いてその答えの新鮮さに驚いたりすると、学生やスタッフでも、現象への観察眼が鋭くなり、私以上になる。

私自身が興味関心を持つことで、相手を興味関心の渦に引き込むこと、そのあと、相手のアマノジャクを刺激するような「これ、できるようになるの、時間かかるんですよね」とか、相手の気づきや発見に驚いて見せると、様々な現象に興味関心を持ち、観察し、私に報告してくれるようになる。私は驚くだけ。

自然や生命の神秘さ、不思議さに目を瞠き、驚く感性(センス・オブ・ワンダー)を取り戻すには、そばに一人、興味関心を強く持ち、不思議がる人が一人いればよいように思う。そしてその人が、巻き込んだ人の発見や気づきに驚けば、その人自身ものめり込むようになるように思う。

子どもたちにそう接しているからか、本気で子どもたちに驚かされることがある。先日、カタツムリを息子が観察していたのだけれど、なんと、カタツムリの歩いた跡は、濡れているところが途切れ途切れになっていることを教えてくれた。カタツムリはべったり歩くと思っていたから、びっくりした。

乾いたアスファルトの上を進んでいたカタツムリは、水分を吸い取られるのを最小限に抑えるため、接地する場所を最小限にしていた。その結果、進んだ後は、カタツムリが接地した場所だけが濡れ、乾いたところ、濡れたところ、が交互になっていた。息子がマジマジ観察したから気づいたこと。

大人がなんでも不思議がり、首を傾げ、子どもが観察し、気づいたことに「ほほう、なるほど」と反応していれば、子どもはどんどん観察眼を鋭くし、様々なことに気づきと発見を増やしていくように思う。周囲にそうした人が一人いると、ずいぶん違うように思う。

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