笑い話に転化した苦労話は客観性を感じさせる

YouMeさんは、過去のひどい目にあった体験を面白おかしく話す名手。それはそれはつらかったはずなのに本人もネタとして楽しそうに話すから笑っちゃう。次から次へと繰り出される苦労話が、楽しくてならない。そして最後には「よくもまあ、こんなつらい体験を笑いに昇華できたものだなあ」と感心する。

私はつらい話をつらそうに話すごくふつうの話し方で、それをするとみなさんその場では同情を見せてくれるけど、どちらかというとおつきあい。むしろ「またこの人のつらい話につきあわされるのはまっぴらごめん」と避けられたり。場合によっては「お前も悪いところあったんじゃないの」と説教されたり。

これまでの研究の苦労を話してくれないか、と、講演の機会を頂いた。YouMeさんを見習い、苦労をすべて楽しげに、面白おかしく話してみる「実験」をしてみた。次から次へと現れる苦労話の数々。けれどみなさん、次はどんな展開が?と前のめりな感じで、笑い声立てて聞いてくれた。

後でみなさんの感想文を頂いたら、「全部を笑い話にしていたけど、つらい体験をそこまで昇華するのにどれだけの時間が必要だったんだろう」と、考え込み、こちらを深く気遣い、理解しようとしてくれる感想文が大半だった。それまでにない反応だったので驚いた。そうか、苦労話は楽しく面白く話した方がよいのか。

笑い話にするには、相手を完全な悪人として描かず、そして自分をどこか間の抜けた対象として描く必要がある。それがたぶん、聞く側に客観性を感じさせるのだろう。自分自身の体験を笑えるには、自分をどこか客観視できる心構えがないとできないことを感じ、かえって信頼してもらえるらしい。

他方、つらい体験をつらそうに話すと、自分の感覚、感情に溺れてる感がある。主観的なものの見方しかできていないように感じ、客観性があるとは思えない。このため、聞く側は話半分で聞いてしまうことが増え、「お前にも悪いところがあるからそんな目にあうのでは」と、いらぬ説教食らうのかも。

つらい話を笑いに変えるのは、生々しい感覚が残っている間は難しい。やったことない場合はよけい。ただ、つらい話は笑い話に転化しやすいのも事実。もはや名手であるYouMeさんは理不尽な目に遭うと「ネタが一つ増えた」と喜び、「ねえ、聞いて聞いて!」と嬉しそうに話してくれる。

私もYouMeさんに触発され、つらい目、ひどい体験をしたら「これ、将来ネタにできるなあ」と考えるようになった。すると現在進行形のつらい体験も、現場からのリポートです!みたいな感じでワクワク観察する余裕も生まれてきた。YouMeさんは、何でも楽しむ人。尊敬している。

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