自分が作った蟻地獄から抜け出すには

安心できる居場所を強く求めながら、少し気に入らないことがあると激しく感情的になり、攻撃的となり、周囲を辟易させ、結果として居場所を失う人がいる。私は専門ではないので詳しい訳ではないが、境界性人格障害とも呼ばれるらしい。いわゆる「ボーダー」。
https://1mental-clinic.com/border/

私はいくつかの事例を知るだけだから全部に適用できないだろうけど、こうした人達を見ると、自己肯定感が低いけど自己評価が高い、という特徴を感じる。自分を肯定できない原因の1つに、自己評価が高すぎる(私は本来、こんな立場・状況にあるべき人間じゃない)のがある気がする。

他人は自分を正当に扱うべきなのにそうされないことに苛立ち、強い不満を持ち、それでカッとなってしまう。で、即座に居場所を失ってしまう。またやってしまった、という気持ちもある一方で、「だってあいつがこんなことをしたから」と他責の気持ちが強い。自責と他責でわけがわからなくなってる。

なぜ自分は正当に扱われるべきだと考えてしまうのだろうか?昔、優等生だったとか、学歴が高いとか、社会的地位が高かったとか、そうした「思い出」があり、その思い出に基づけば、他者は自分に敬意を持ち、自分を大切に扱うべきだという「思枠」を採用してしまっているらしい。

しかし他人からしたら、そんな思い出、知ったことじゃない。昔優等生だったとか学歴が高かったとか社会的地位が高かったとか、みんな「それで?」という感じ。まあ、社会的儀礼で「スゴイですね」くらいはその場で言ってもらえるかもしれないけど、その一瞬で終わってしまう。

人間関係で大切なのは、自分に対してこの人はどういう姿勢でいてくれるか、ということ。ところがボーダー的な人は、自分を王様として扱えと要求してるところがある。そしてお前は私を敬い、大切に扱うべき下僕なのだ、という位置づけを無意識のうちにしてしまう。そんなの、当然拒否される。

拒否されると、ボーダー的人は不当な扱いをされたとして怒る。周囲は「いや、不当な扱いをしようとしたのはあんたやがな」と思う。面倒になって距離を置く。本来尊敬されるべき自分が周囲から距離を置かれ、孤独になるのはおかしいと考えて怒る。

心療科もやってる先生からアングリマーラという仏弟子の話を教えてもらった。典型的なボーダーの例だという。
アングリマーラは美青年で、言い寄られた女性を断ったらそれが師の妻で、「アングリマーラに襲われた」と偽り、師は激怒、わざと誤った教えを伝える。
https://home.hiroshima-u.ac.jp/soho/message_old/message2009.9b.html

「悟りを得るには人を殺し、その指で首飾りを作れ」。アングリマーラは混乱しつつも師の言葉を信じ、人を殺しまくり、殺人鬼として恐れられるようになってまさに「ボーダー」になってしまう。自分で自分の居場所を破壊する生き方を選んでしまう。

その後、ブッダに諭されて弟子になるけど、かつて殺人鬼だったのを人々は許さない。殴られ蹴られ、かつての恨みをぶつけられる。アングリマーラが改心したなどとは信じられない。アングリマーラも心が揺らぐ。こんなにも憎まれるなら、憎み返してもよいのでは?もうヤケになって構わないのでは?

自分で取り返しのつかないことを繰り返す。それによって自分の居場所を破壊する。周囲を辟易とさせ、その反応を恨みに思い、またしても攻撃性を増す。
しかしアングリマーラの物語は、自分から変わるしかないことを物語る。他人から変わってもらえることはない。全部自分がやらかしたのが原因だから。

いかに自分の攻撃性を抑えるか。他者から攻撃された、冷たくあしらわれたと思った時、どうやって自分の感情を和らげるのか。他者にそれを求めることはできない。他者の反応は自分の振る舞いの反映でしかないのだから。そこに思い至るかどうかがカギになる。

しかし「自分は悪くない(悪いかもしれないけどそれは大したことない)、悪いのは自分を不当に扱う他者」という「思枠」を採用している間は、自分で自分に蟻地獄を用意してるようなもの。抜け出せない。ボーダーは非常に治療しにくく、本人がその気にならない限り無理、と言われるのはそのためだろう。

このままではいけない、と本人も気づいてはいる。けれど「なんで自分だけこんなに耐えなきゃいけないの?」と、アングリマーラが民衆から攻撃された時に感じた思いと同じ感覚に何度も襲われ、「もう知るか!」と暴発し、元の木阿弥に。それを何度も繰り返してしまう。

他者との関係性をよくするには、自分が他者に驚いてもらうことばかり考えず、自分が他者に驚くようにするとよいように思う。お茶を入れてもらえたら「あ!ご親切にありがとうございます!」と、思わぬ親切に驚いてニコニコ。自分に話しかけてくれたら、その奇跡に驚いてニコニコ。

自分の話を聞いてもらう以上に相手の話を聞き、自分との差分に気がついたらそれに驚き、面白がる。人間は、自分に対して好意的に反応してくれる人を好きになるところがある。
ところがボーダー的人は、自分が周囲にそうしてほしいという思いが強すぎて、「なんで自分ばかりがこんなことを」と不満。

そうした不満が湧くのは、やはり「自分は正当に扱われる(敬われる)べき人間である」という価値観をつかんで離さないからかもしれない。アングリマーラがバラモンの誇りを持ち、かつてはあともう少しで悟りの境地にたどり着けただろうに、という思いに囚われて納得できなかったように。

大切なことは、他者から愛されたい、認められたい、大切に扱われたいという欲求が自分の中にあることを認め、けれど何の理由もなしにそれを他者から求めるのは無理であるという現実も把握し、自分の採用している「思枠」の歪みに気づくことだろう。自分を重んじ、他者を軽んずる思枠の歪み。

優等生であることも、学歴が高いことも、社会的地位が高いことも、他者を辱めるための道具に化すのなら何の価値もない。他者の力になるため、喜んでもらえるような力とするための道具でしかない、ということに気づけるがどうか。決してそれらは自分の身勝手を許す免罪符にはならないのだ、と。

ボーダー的人が、こうしたことに気づけるかどうか。自分で気がつかねばならない。他者からはなかなかどうしようもない。他者からの説教は「何を偉そうに、自分は悪くない、悪いのは周囲だ」という反応だから、他者からなかなか伝えられない。

自分の作った蟻地獄から抜け出すことはできるか。ボーダー的人は、それに気づけるか。もはや祈るしかない。

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