子育てには観察科学

科学を子育てや、自分自身の自己研鑽にどう適用したらよいのだろうか。
科学ではよく「反復数」を大切にする。すくなくとも3つ以上のサンプルが、同じ条件で同じ結果が出るなら、それは4つ目以上でも同じ結果が出る可能性が高い(再現性が高い)と考える。しかし。

子どもはみんな個性がバラバラ。生まれてきた環境、育ってきた環境もバラバラ。再現性を調べるためには「同じ条件」をそろえなきゃいけないのに、そもそも同じ条件の子どもがいない。それは自分も同じで、世界で一人だけ。自分をあと二人用意することができない。

教育は、実験科学の手法をとることが非常に難しい。たとえば30人学級を3つ用意したとして、子どもの個性のばらつき具合がどのクラスも同じくらいだと仮定しても、それぞれのクラスを担当する先生にばらつきがある。同じ言葉を発しても、先生によって子どもの反応はバラバラ。

ある先生が話すと生徒たちがよく聞くのに、別の先生が同じ言葉を話しても生徒たちが聞きゃあしない、ということはよくある。声色の違いだけでも生徒は敏感に反応する。そもそも「同じ条件」で実験するという、実験科学の基本的なことが再現できないのが、教育関係の悩みどころ。

私は、子育てや自己研鑽のような場合、実験科学の手法はかなり限界があるように感じている。個性がありすぎて、そもそも実験が始められないから。子育てや自己研鑽の場合は、観察科学の手法の方が適切なように思う。

地層からサンゴの化石が見つかった時、「このあたりはかつて暖かい海の底だった」という大胆な仮説を、地学だとか古生物学とかは立ててしまう。たった1個の石ころで何千万年以上も前の話をするなんて、実験科学ではタブー中のタブー。しかし観察科学では、あえてこれを行う。その代わり。

他の石ころからも仮説を紡ぎ出す。仮説と仮説を戦わせ、生き残り競争をさせる。あるいは、両方の仮説を説明できる大きな仮説を考える。こうして、1個の石ころから紡ぎ出した仮説同士を戦わせて、生き残った仮説を信ぴょう性の高い仮説として採用する。これが観察科学の方法。

私は子育てのコツや、自分自身をどう取り扱うかのコツの発見には、この観察科学の手法を取り入れてきた。「こういう場面ではこうしたほうが良いのだろうか?」という気づきがあった時、その気づきをむやみに否定せず、とりあえずその仮説を次の機会で試してみる。そしてうまくいくかどうかを観察する。

その結果、仮説の修正が必要なら修正する。また似たような場面に出会ったら、その仮説を試してみる。またその仮説の修正が必要になったら、また修正する。そうして、現実に出会う場面で何度も仮説を修正し、磨き上げていくうちに、使える仮説(子育てのコツ)が生き残っていく。

観察科学の特徴は、まずはともかく観察すること。そして気づいたことをもとに、大胆に仮説を紡ぎ出すこと。そして似たような場面が訪れた時、その仮説を思い切って試すこと。そして修正が必要と感じたら容赦なく仮説を修正すること。すると、その仮説は非常に使える仮説に育っていく。

自己研鑽もそうした方法でよいのだと思う。自分はあいにく世界で一人しかいない。反復とろうと思ってもできやしない。経験はうっかりするとたった1度きりで終わるかもしれない。似た経験は何度もするが、どの経験も少しずつ違う。全く同じ経験をすることはまずない。

だから、1つの現象から仮説を紡ぎ出しても、少し違う出来事に出会ったとき、その仮説通りではうまくいかないことなんてザラ。それは仕方ない。けれど、なぜうまくいかなかったのか、仮説をどう修正したら似た現象でも対応できる、融通の利くものになるのか?を考える必要がある。

これを何年も何十年も続けていると、どんな事態が起きてもそこそこ対応できる仮説が生き残ったりする。それが「知恵」と呼ばれるものなのだろう。これは意識的にしているかどうかでずいぶん違う。意識的に行わないと、積みあがっていかない。

私がツイッターでつぶやくコツは、そうした観察科学のやり方で見つけてきたもの。しかし、私とあなたでは育ってきた環境も、今の環境も異なる。だから、私の紡いだ仮説がそのまま適用できるとは限らない。自分の使いやすいようにフォーマットし直す必要がある。

自動車教習所では、自動車の運転の仕方を習うことができる。しかし授業で話を聞くだけ、人が運転しているのを見るだけではうまくならない。自分自身が運転し、体で覚えるしかない。観察科学で見つかったコツは、自分自身で試してみないと習得ができない。結局は本人次第。

自動車教習所の教官は、どのペダルを押せばエンジンをふかすことができ、どのペダルだとブレーキがかかるかは伝えることができる。しかし、アクセルをどの程度踏めばどのスピードになるのか、ブレーキをどのくらいの力で踏めば急ブレーキにならずに済むのかは、実践で学ぶしかない。

つまり、子育てとか自己研鑽のコツって、「目のつけ所」を伝えることはできても、習得するのは自分自身で練習しないといけない。コピペは簡単にできない。

私が子育て本で「子育て本は目のつけどころを伝えることしかできない」と言ったのはそのため。これは部下指導でもそう。結局は、本人がやってみるしかない。
この構造は、実は子育てや部下指導でもそう。子どもが、部下が、その本人がやってみるしかない。親も指導者も実は教えるなんてできやしない。

目のつけどころだけ伝えて、あとは本人が能動的に取り組み、習得しようとするのを祈るだけ。教えようとしたり命令しようとしたりすると、その能動性が失われ、本当の意味では身につかなくなってしまう。いかに本人が能動的に取り組むか、だから、祈るしかない。

本人が能動的に取り組み、発見した時、驚き、一緒にハイタッチする気持ちで待つ。祈る。子育てや部下指導のコツを観察科学で探した結果、結局そういうことに気づかざるを得なかった。
では、本人が能動的に動くしかないから、何もできることはないのか。否。

本人が能動的に動くように仕向けることは可能。低く溝を掘れば、水はそちらに流れずにいられないように。本人が今の力でどうにかなりそうな課題を与え、しかし変に教えず、本人に解決させる。こちらはひたすら祈る。教えないのにできたら、ちょっとした驚きが生まれる。

その驚きが相手に伝わるから、楽しくなる。人を驚かすことって、人間は好きだから。そして驚かせるものが、「できない」を「できる」に、「知らない」を「知る」に変えることができたこと、自分の成長や発見であった場合、特にうれしく、楽しくなる。

成長や発見で人を驚かすことができる、というのがうれしく楽しいから、能動的になる。能動的になると、小さな課題をどんどん解決していく。すると自己効力感が増すから、よけいに楽しくなってくる。楽しいからさらに能動的になる。

そうした仕組みを、親や指導者が準備できたら、子どもや部下は能動的に工夫しようとし、発見しようとし、成長しようとする。工夫する子供、あるいは部下は、必ず成長する。学ぶ。しかも楽しみながら。

私が観察科学の方法で子どもや部下を観察して導き出したのは、そうしたコツ。それをツイッターでつぶやいている。私は幸い、上司に恵まれてきた。私のやる気を引き出してくれる上司に恵まれてきた。上司のおかげでやってこれた、と感謝している。私と同じように思う人が増えてほしいな、と願っている。

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