「言語化」考

言語化は「言葉を操る」とは違う。言葉を巧みに操ることは、言語化から最も遠い姿だと思う。言葉に言葉を重ねたら、自分の感覚から遠ざかってしまう。言語化は、自分の感覚に肉薄することであって、言葉を連ねることとは違うように思う。

だから、言語化は、言葉巧みな人よりも言葉の拙い人のほうが最も近いところにいるように思う。自分の感覚を言葉にできず、もどかしい思いをしているなら、それは最も言語化に近い状態。言語化は、自分の感覚に肉薄しようと四苦八苦して言葉を紡ぐことなのかな、と思う。

言語化のもう一つのコツは、人に伝わるかどうかを指標にしないこと。人に伝わることを指標にすると、どうしても常識的な言葉を選ぶことになり、自分の感覚から離れてしまう。言葉の選択も制限されてしまう。自分の感覚により近づけた、と、自分でしっくりくることを大切にすること。人を指標にしない。

自分がしっくりするなら、その分野では使われない表現でも構わない。でも不思議なもので、自分の感覚に近づけてる表現だと思える言葉は、他の人たちにとっても「そんな表現が可能なのか!」と驚きの表現になるらしい。まずは自分がしっくりくることを何より大切にしたほうがよい。

言語化の3番目のコツとして、音読み熟語を避けること。自己肯定感とか、音読みの漢字を使うと自分の感覚から離れていくことが多い。音読み熟語は書き言葉で、日常であまり使われないためか、感覚から離れた、言葉の上に築かれた言葉になってしまいがち。

たとえば自己肯定感を、私は「生きていていいんだ、生まれてきてよかったんだ」と感じられること、と表現している。音読みではなく訓読み言葉で表現すると、少し長ったらしい表現のようだけど、感覚をうまくなぞるように表現できることが多い。

さらに4つ目のコツは、自分の体験、エピソード、ナラティブ(物語)を添えること。たとえば「センス・オブ・ワンダー」は端的な表現だけど、端的な表現というのも感覚から離れて勝手に言語の空中戦に飛んでいくことが多い。そこで私は「自然や生命の不思議さ、神秘さに目を瞠り、驚く感性」と表現」。

でもそれでも、言葉が感覚から離れて勝手に踊りだす恐れがある。そこでアンカー(錨)として、自分の体験を添えることにしている。自然や生命の不思議さ、神秘さに目を瞠り、驚く感性を感じた実体験を話せるようにしておく。すると、感覚から言葉が離れていかない。

言語化は、言葉巧みなことではない。本来言葉にできないものを、その輪郭をなぞるように肉薄しようと、四苦八苦するものだと思う。そうした四苦八苦感が、自分にしっくりくるだけでなく、他の人たちにとっても「その感覚、わかる!」につながるのだと思う。

5つ目のコツは、言葉に拘泥しないこと。大切なのは自分の感覚であり、言葉ではない。だから「あ、巧みな表現ができた」と喜んで言葉を大切にすると、かえって感覚から離れてしまう。感覚に肉薄できるなら、巧みな表現を平気で捨てられることが大切。言葉よりも感覚重視。

言葉よりも感覚を重視できると、二番目にあげたコツと矛盾するようだけれど、他者にも伝わる言葉を紡げるようになる。
昔、「朝まで生テレビ」で発言した学生の言葉が、週刊誌かテレビで見聞きした言葉をコピペしたものでしかなく、パネリストから「自分の言葉で話せ」と笑われていた。

学生は「私は私の言葉で話してますけど?!」と怒ったが、私から見ても誰かの受け売りだな、と感じた。
さて、「自分の言葉で話す」って、どういうことだろう?自分の意見を言う、ってことなんだけど、他人の受け売りも自分が信じてたら自分の意見?いや、なんか違う気がする。それはやはりコピペ。

で、子どもの教育について長年話し合ってきた方にぶつけてみた。「自分の言葉で話すって、どういうことでしょうね?」するとその人は「相手に合わせて言葉を紡げることじゃないですかね」と言われて、私は思わず膝を叩いた。

自分の感覚について言葉を紡いでみたけれど、相手に伝わった様子がない。そしたら、相手から伝わる感覚を大切にして、今まで慣れ親しんだ表現を捨てて、自分の感覚と相手の感覚をつなげる別の言葉を探す。これが「自分の言葉で話す」なのだろうと。言葉にこだわらないからできること。

言葉にこだわる人は、相手がわからない顔をしても、全く同じ用語しか繰り返せない。相手の理解力のなさを嘆いて、自分の表現が硬直的なことに反省がない。しかし「自分の言葉で話す」人は、相手がわからない様子なら、これまでの表現を平気で捨てて、相手が何を感じてるのかを推測し、自分の感覚も大切にし、自分の感覚と相手の感覚を橋渡しする言葉をその場で探し始める。それが「自分の言葉で話す」なのだろう。つまり、「自分の言葉で話す」は、自分の感覚だけでなく、相手の感覚も考慮した「言語化」作業のことなのだろう。

それができるには、言葉を弊履(くたびれた草履)のように捨てられることが大切。言葉にこだわらず、感覚を重視するからできること。皮肉なものだが、言葉を捨てられるから言語化ができる、とも言える。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?