「〇〇に言及がない」批判の不当性

最近でこそ減ってきたけど、「〇〇に言及がない」、だからこの主張はナンセンスだとか、バランスを欠いてるとか、知識不足勉強不足だとなじる人がいる。しかし文章というのは、読むに耐える長さというものがある。全てに配慮し言及していたら、百科事典サイズになってしまい、誰にも読まれなくなる。

文章というのは原則、一つの「気づきの提示」が精一杯。ふだん私達が日常に目にしながら言葉にできてないことを言葉に紡ぎ、それを伝えることができたら、その文章は使命を終える。その気づきをもとに、読み手側がさらに連想を膨らませればよいだけのこと。なのに。

その文章の気づきから連想できたことをもって、「自分の連想したこれに言及できてないから意味のない文章」となじるのは、文章というものの機能が理解できてないし、書き手の苦労への考慮が欠けているし、何より礼を失している。そして何より、自分の方が高次なことに気がついたというマウンティング。

人間にはマウンティングしたくなる本能が隠されているらしい。その本能の存在を否定する必要はない。しかし大人になれば、それは幼児的欲求ではないかと自制することが求められる。人より優位に立ったら自分の値打ちが上がる気がするのだろうけれど、むしろ下げてしまう実態がある。本能が導く誤り。

もし、読んだ文章には書かれていないことに気がついたら、「こういうこともあわせて考えると、さらに膨らみが出るかも」と「提案」する形だと、全然違う。文章の書き手もそれだと受けとめやすいし、新たな気づきも得られる。双方にとってメリットがあり、生産的。

文章を批判したりくさしたりする人は、「文章を書いた人間には批判を謙虚に受けとめる責務がある」という思惑があることをタテにとり、攻撃的欲求を満たしている面がある。一般常識にもたれかかった甘えがある。そしてその常識は、改めて十分検討すべき点があるように思う。

「これに言及していないからこの文章は無価値」なんていう失礼な物言いではなく、「これをさらに加えると膨らみが出るのでは」という提案では、同じことでも文章の書き手に与える印象は全く違う。マウントとりたいという欲求と、相手への敬意があるのとでは、全然違う。

文章の読み手側にも責務がある。むやみなマウントをとらないこと。新たな気づきが得られたら、「これに言及がない」と、あたかも欠点であるかのように指摘するのではなく、膨らみをもたらすものとして「提案」すること。互いに知見を持ち寄り、一緒に高次へと登ろうとする「築論」の精神。

幸い、「ここが欠落してるからナンセンス」というマウンティングは減ってきたように思う。建設的に語り合うためにはどうしたらよいか、経験則を蓄積していけたらなあ、と思う。

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