子どもの中にどれだけ蓄積しているかを観察する

自分が高学歴で勉強ができたと思っている人は、「自分は勉強についてはそんじょそこらの教師や塾講師よりも分かっている」という自己イメージを抱きやすい。で、学校の教師をバカにしたり、品定めする人を結構見かける。しかし名選手名監督ならず、とはよく言ったもので。

自分が勉強できることと、人に勉強を教えることは、全然違う。自分がなぜ勉強できるようになったのか、無自覚な人が多い。あまりに幼いころ過ぎて、記憶があいまい。しかも「うまくいっている」ケースは、なぜうまくいったのかを言語化、意識化しにくい。だから、無自覚になりやすい。

勉強しろと言われたことがなく、勉強で苦労した覚えがない、という人は、今回のツイッターへの反応を見ても、東大京大には多い様子。なぜ勉強が苦にならなかったのか、楽しんで勉強できたのか、はっきり自覚できている人は必ずしも多くない。

両親ともに高学歴で、学ぶことは楽しいことだと思っており、「楽しいことだから子どもも自然と学ぶようになる」と思っている場合は、子どもに勉強しろと言わずに済むらしい。で、学ぶために必要な環境(本とかオモチャとか)は揃っているから、子どもも自然に学びだす。

しかし親の片方に学歴コンプレックスがあり、たくさん勉強させなければ成績はよくならない、という信念がある場合、もう片方が高学歴で「ほっときゃ子どもはそのうち学ぶようになるよ」という言葉が根拠薄弱に聞こえて、大概、前者に論破され、押し切られる。で、勉強が強制になってしまう。

両親が高学歴で「ほっときゃ学ぶ」という信念を持っている場合でも、つまづく場合がある。「なんでこんなに点が低いの?授業聞いていれば普通100点取れるでしょ」という両親だと、子どもが分からないでいる原因が分からない。どこが分からないのかもわからない。どう教えたらよいのかもわからない。

子どもの気持ちが分からないで、「なぜ100点が取れないんだ」という接し方になると、子どもはつぶれてしまう。結局、両親が高学歴であっても、なぜ自分が学ぶことを好み、様々な学習をスッと終えることができたのか、無自覚なので、言語化できていない。だから子どもに適用できない。

ただ「ほっときゃ学ぶようになるだろう」と放置するのでは、さすがに両親が高学歴でもうまくいかない。塾に通わせるのでも、両親の側で二つの注意点が守れていないと、うまくいかないケースが出てくるように思う。1つは体験ネットワーク。もう1つはタイミング。

以前にもまとめたけど、机の前に座る座学よりなにより、「体験ネットワーク」を構築することが重要。一度聞いただけで頭に入ってしまう子は、それ以前に様々な体験を積んでいる。子どもは、その体験の一つに名前を付けるだけ。体験ネットワークの充実が、学習を容易にする。
https://note.com/shinshinohara/n/nab00da2b2762

もう一つ。タイミングが重要。子どもによって、理解が進むスピードは様々。九九を習ったときになかなかそれが理解できない、頭に入らない子がいる。分数の計算が分からない子がいる。そういう子は、それらを理解する前段階のことが蓄積できていないことが多い。

九九を理解するには、2を3回足したら6になる、という経験を散々やった体験があって、「2を3回足す作業をしたら、どんな時も必ず6になる」という確信が育つ必要がある。また、「3を2回足すと必ず6になる」という確信も、何度も計算し、足し算することで育つ必要がある。そしてある日。

「2を3回足したら6,3を2回足したら6,2と3を入れ替えても6になる!」という、数と回数を入れ替えても同じ答えになる、という不思議なことを発見した経験が必要。それに感動した経験が必要。そうした発見の喜びの蓄積があると、九九にスッと入れる。けれど。

そうした蓄積が不十分だと、九九はどうも納得いかない。2を3回足して、6以外の答えになることもあるような気がする。3を2回足しても6以外の答えがあってもよいような気がする。こうした状態だと、九九を丸暗記せよ、という指令は怖くて仕方ない。「本当にそんな乱暴なことでいいの?」

九九を習う学年、割り算を習う学年、分数を習う学年の時に、それを理解するだけの「発見の蓄積」がそろっていない場合がある。そういう場合、その学年でできるとは限らない。そしてここが大切!できなくても焦らないこと。焦ってそれらを無理に理解させないこと。

私の塾には、公立中学で学年最下位水準の子が4人来たが、どの子も平均以上の成績にまで戻った。なぜそれができるかというと、できなかった内容の手前にまで戻って学習し直したから。どの子も分数、あるいは割り算の段階で怪しかったが、「発見の蓄積」を面倒がらずにやると、マスターした。

何度も何度も、2を3回足して6,3を2回足して6,というのを体験させると、「そうか!だから二三が六、三二が六と覚えても構わないのか!答えはいつも同じなんだ!」ということに気がつき、安心して九九を覚えられる。そのとき、そばにいる大人が「そうだ!それによく気がついた!」とハイタッチ。

こうした蓄積ができる年齢は、その子によって違う。だから、高学歴の両親の子どもであっても、どうしたわけかその蓄積ができていない場合、習ったことが理解できない、ということは起こり得る。それが起こったとしても焦らない。その前段となる体験を蓄積すればよいこと。

蓄積し、あふれ出すようになると、次のステージに上がる。体験不足、発見不足に気がついたら、その手前に戻ってやり直せばよいこと。ところがどうも、「中学生にもなって小学校の内容をやり直すなんて」と、変なこだわり持つ親も多い。で、やむなくやり直すことになっても。

「なんでこんな簡単なことが分からない?」とイライラを子どもにぶつけたり。これでは子どもは嫌になるし、嫌いになる。わからないものは分からないんだから、親がイライラしても仕方ない。これは物理現象であって、基礎を積んでいないのに上を積み上げられるわけがない。

公立中学最底辺の成績(どのテストも10点以下)であっても、もう一度小学1年生の内容からやり直したら、さすがに中学高校生くらいになると、「あれ?できないと思っていた分数ができた」となる。友達とお菓子を分け合うなどの体験が蓄積していて、理解するための体験の基礎があるから。

だから、その子がどのタイミングでそれを理解するのか、その子に合わせる必要がある。「他の子はもっと進んでいるのに」などと考える必要はない。むしろそういう考え方は害悪。その子が、その子のスピードで、学習を進めていけばよい。学ぶことの楽しみさえ失わなければ、ちゃんと克服していく。

ちなみに、私は中学3年生になってから、小学校の内容を複数回やり直している。1年生から6年生まで。意外と忘れていることがあって、驚くことが多かった。高校生になっても2度ほど小学校の内容を復習した。私が思うに、小学校の内容が抜け落ちている子、偏差値60の子でも多いと思う。

私は、「勉強」が好きではない。「つとめて強いる」という字面で、いかにも強制されている感じ。中国の人に聞くと、その通りの意味なのだという。しかし学習は、本来楽しいこと。子どもが楽しんで取り組めるように、大人も接し方を工夫する必要がある。

新しいことを学ぶことの楽しさを知っていれば、子どもは遊びと同じ感覚で学ぶ。遊んでいるから、熱中する。熱中するから、頭に入る。その子にとって最速のスピードで学ぶことになる。学びを遊びにしてしまったほうが良い。そのためには、机の前に座る勉強だけを学習と考えないほうが良い。

そして、この子がどの分野でどれだけ内部に蓄積しているか、を観察して把握しておいた方が良い。息子は早くから計算に興味を持っていたが、その発達の具合は観察していて面白かった。2+3をみたら、2個の点と3個の点を書いて、「いち、にい、さん・・・」と数えていた。それを膨大に繰り返した。

ある日、2+3という式の答えにいきなり「5」と書いた。私はビックリして、「なんで点を書かずに、それを数えずに答えが分かったの?」と答えたら、「何度数えても5だと分かったから」と答えたのでまたビックリ。3+2の答えをまたいきなり「5」書いたので驚いて質問した。そしたら。

「何回計算しても、数字の順番が前でも後ろでも、同じ数字の足し算は答えが同じだと気がついたから」と答えて、またまたビックリ。点を数える地道な作業を膨大に繰り返した結果、ある日、その作業をすっ飛ばすアイディアを自分で発見し、その理屈まで理解していることに驚いた。

私の指導法の特徴は、ここにあるのかもしれない。勉強ができる人は、ついつい「なんでこんなこともできないの?」と、できる側からの発言が多い。それで子どもの意欲をくじく。私はその子の中にどんな蓄積があるかを考える。それに不足があったら「だとすればこれを理解するのはまだ難しいな」と判断。

で、理解するために必要な、前段の体験を蓄積していく。九九の怪しい子は、2を3個足す、4個足す、という地道な作業を繰り返す。できれば数字ではなく、お金とか棒とか、物体化したもので繰り返す。それを繰り返すと、ある時、「何回やっても2を3個足すと6になる」という法則を発見する。

その「法則」を発見すると、とたんに子どもは九九を一気に覚えられるようになる。納得づくだから。
私は子どもが「法則」を発見した時、驚く。その子に、その法則を発見するだけの蓄積がないことを私は知っている。いつかその蓄積がなされますように、と祈りながら、地道に一緒に作業する。

すると、ある時子どもはまさに開眼したかのように発見する。祈っていた私は「いつくるともわからなかったけど、ついに来た!やった!」とハイタッチする。子どもも驚いているけれど、私も驚く。ともにその発見に驚き、嬉しくなる。こうした体験の共有があると、子どもはこの作業が大好きになる。

分からなければ、その手前で作業を繰り返し、体験を蓄積すればいいんだ、それによって法則の発見ができるのを待てばいいんだ、ということが分かった子どもは、その作業が楽しくて仕方なくなる。いったんこの作業に入ると、子どもの学習スピードは超速。

だから、焦らなくてよいように思う。小学校の間は、散々遊んでおけばよい。変に苦手意識を持ったり、嫌いになったりしないようにだけ気を付けて。もしできないところがあっても、前段のところで蓄積を重ね、「法則の発見」が起きるのを待つ。その心構えでよいように思う。

小学校で習ったタイミングで理解できなければならない、ということはない。もちろん、学習内容がどんどん進んでしまうので、子どもも困ってしまうのは確か。けれど、つまづいているところをいくら繰り返してもダメ。つまづいている場合は、その前段のところで蓄積が足りないことがほとんど。

子どもをよく観察し、いま、子どもの中で何がどれだけ蓄積しているか、それを把握すること。蓄積が足りないと気づいたら、それを蓄積する作業を、楽しみながら行うこと。それは何も座学である必要はない。遊びながらで構わない。

こうしたことを理解した上で指導できると、勉強が苦手だ、嫌いだ、と思い込んでしまう子どもをもっと減らせるのに、と思う。前にまとめたように、「頭が悪い」なんて死ぬまで分からない、死んでもわからないのだから。
https://note.com/shinshinohara/n/n74b8850ec736

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