「いじめ」とは何なのか。
イジメられたこと、ありますか?
こんな質問をして「はい」と答える人はどれだけいるでしょうか。
・イジメの被害経験者が少ないのか、
・「はい」と答えることで後ろ暗い印象を
持たれることを避けるためか
・自分のセンシティブな過去を
相手に開示することに抵抗があるのか
理由は私の知る所ではありませんが、
少ないのではないでしょうか。
なにゆえ突然に「いじめ」の話をしようかと思ったのかと言いますと、先日お笑いトリオ ジャングルポケットの斉藤慎ニ氏が自身のイジメ体験を告白していたことに思うことがあったからです。
突然のnote執筆ではありますが、この度は
・私のイジメ体験を少々
・イジメとは何かについての個人的な解釈
について述べて参ります。
読んで下さいましたら幸いでございます。
私、イジメられたこと、あります。
小学6年生の時、私はイジメられていました。それまで仲良く遊んでいたはずの友人から突然イジメられるようになりました。不幸中の幸いか、直接的な暴力はありませんでした。身体の健康は守られていました。
「お前と喋ると脳が腐る」
私の受けていたイジメの内容は
・集団の輪から疎外される
・汚らしい言葉を吐きかけられる
の二点に大別されます。
メディアで語られるような壮絶なイジメ体験とは言い難いですが、イジメに大きいも小さいも存在しません。
被害者側がイジメと認識した段階で
それは紛れもないイジメなのです。
正直な話、私がなぜイジメの標的にされたのか、現在でも理由がわかりません。このわからなさ故に「いじめとは何か」というテーマに向き合うことになりました。
私をイジメていた人間はクラスでも人気者でした。頭も良くて運動能力も高く、面白いとされていた人でした。彼には一体何があったのでしょうか。私にはわかりません。
図画工作の時間で不運にも同じグループになってしまい、「お前と喋ると脳が腐る」などと吐き捨てられました。
腐るわけねーだろボケカスが。
汚らしい言葉をチクチクと何かにつけて吐きかけきました。元いた集団からは疎外されていました。クラスの人気者が何か言えば金魚の糞どもは従うのみなのでしょう。無関心なのもあるでしょうが、止めるような人はいませんでした。
「一個くらい居場所消えても他があるっしょ」という大人的な発想は、小学校という学区域で括られた狭い村社会にいる齢11歳にはできませんでした。
最終的にイジメは乗り越えたのですが、
その経緯の仔細は別の機会にします。
「いじめ」という社会的な行為。
私は自分がイジメられた理由が最後までわからなかったため、イジメを乗り切った後も「いじめとは何か」について考えるようになりました。
私の現時点での
「いじめ」に対する仮説を述べましょう。
「いじめ」という行為そのものに機能的な意味があるであって、ターゲットが誰かというのは加害者側的には大きな関心ではない。
イジメの機能的な意味とは何か説明します。
それは端的に言うと、
「集団の帰属意識の強化・集団での自分の立ち位置の測量」である。
つまりイジメの加害者側集団というのは、誰かをイジメるという行為を通じて「自分達はこういう意識を共有したり、こんな行為をする集団である」という集団認識の再確認や強化をしているのである。
つまり、
標的が誰であっても問題はないのである。
イメージがしづらいと思うので、例えを出しましょう。
・オリンピックの時に多くの人は自国を応援することを通じて「私たちは○○人である」という認識を共有・強化しているでしょう。
・「魔女狩り」という行為を通じてキリスト者たちは集団の規範や帰属意識を再確認・強化していたと考えられるのではないでしょうか。
要するに加害者にとって本質的に大事なのは「標的に身体的精神的なダメージを負わせること」ではなく、「いじめ」という行為そのものにあるのだ。
だから私は言いたい。
「イジメられている貴方は何も悪くない、やましいことがなければ胸を張って生きろ」と。
そして周りに助けてくれる人がいない時あなたができる簡単な対処は「徹底的な無視」である。
人間は基本的に情緒的な生き物である。
イジメの標的に無反応・無視という無機質な処理を徹底されると
イジメという行為そのものが成立しなくなってしまうのである。
忍耐力は必要になるであろうが、
私がこれまでの人生経験で得た生きる知恵である。
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