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思いついたことをそのまま書く。カッコいいとは何か

※全く整理されていない文章のメモなので、すごく読みにくいと思います。


カッコいいとは何かということについてちょっと考えていた。カッコいい人ってどんな人かと考えたときに、まず出てきたのはズルをしない人ということだった。しかし、その事が分かっているはずなのに、結構自分はズルをしてきた。カッコよくなろうと努力してこなかった。

なぜカッコ良くなる努力をしてこなかったのだろうか。考えてみると、自分の子供時代自分の周りにはカッコ悪い大人ばかりがいた。ズルイなと言う大人ばかりだった。

でも、いつの間にか自分もずるい子供になっていたし、そのままズルい大人に成っていた。どうして自分は、大人がずるをしても、自分はカッコよくあろうとしなかったのか?その一つは、大人がズルいことしているのだから、自分もズルいことしても良いじゃんと思っていたことがある。すでに周りに環境としてズルをする環境があったので、それが規定の価値観になっていて、それに抗うことができなかったように思う。ズルを覆すには、ズルを超えるような価値観に触れていないといけない。ズル以外の価値観に触れているからズルを覆す力が出る。しかし、私の場合、生育の土台自体がズルにまみれていたので、それを覆す発想がまるでなかったように思う。

大人がカッコいい生き方をしていないなら、自分はそれに抗えばいいのにそれが出来なかった。そこは弱さだし、子供だから仕方ないという事もできるが、いかんせん自分の事であるから、少し残念である。

カッコいい大人が周りにいなくても、カッコいいモデルを他に探すという事もできたはずだ。カッコ悪いに対抗する、カッコいい価値観を学のである。しかし、それをさぼってしまった。これは一つには、怠惰が原因にあるが、もう一つは友達が少なかったことが影響している。友達が周りにいれば自然に違う価値観が入ってくる。しかし、友達が極端に少なかったために、自己の価値観を他の価値観によって上書きするということができず、自家中毒のようになってしまっていたのだ。

私は、カッコ悪いに対抗する価値観を学び損ねたのだ。カッコ悪い大人の生き方をトレースしてしまったと思う。カッコいい生き方をもう一回学び直さなければならないと思った。対抗する価値観を育てていかなければならない。カッコいい生き方をもう一回作り上げていかなければならないように思う。そのためには、カッコいい人に触れる、カッコいい作品に触れる近づくことが必要である。私は今、子供に戻ったつもりで、カッコいいものに触れて、カッコいいって何かを学び直したい。

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