見出し画像

「作者の人柄」ということ

昨日『無職本』(水窓出版)(松尾よういちろう、小野太郎 他共著)という本を読んだ。この本が無茶苦茶面白かった。

画像1

長崎の「ひとやすみ書房」に行ったときに、目について手に取った。少し立ち読みしたら滅茶苦茶面白かったので買ったのだが、大正解だった。8人の無職経験者が無職をテーマに、小論、小説、マンガなどを書いている。

私がこの本に惹かれたのは、私が今ほぼ無職状態になっているからだ。

3月に教職員を辞めて以来、たまにバイト・お寺の手伝いをする以外は収入がなく、貯金で生活している。何というか、無職は自由なのだが、常にこれでいいのかという不安を感じる。無職が許されるのも、当たり前でなく、有難いことかもしれない。

その中で心に残った文章があった。書店主の小野太郎さんの文章なのだが、

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

人口の多くはない地方都市で、インターネットも大型書店もなかった時代の私の読書体験だ。そして当時は、文学や本について語り合う友達もいなかった。高校の同級生たちと馴染めず、人を好きになる自分の感情も上手く言い表すことができないでいた私が、本を読んで少しずつ生命力を取り戻しつつあった頃だと思う。友達と本や文学について語り合うことがなかったのは寂しいことだし、読む本にも偏りがあったことは残念なことだった。しかし本を読むことの貴重な経験も出来た。もし高橋睦郎についてその詩の魅力も理解せず、ただ「ホモセクシャルの詩人」などと友人やインターネットを通じて見聞きしていたら、その詩を読まずに終わっていたかもしれない。「言葉」によってそれまでは未知だった、触れる事のなかったことを不意に血の通った体験として詩は教えてくれた。その作品があくまで明澄だったことは詩の先にいる詩人に対しての信頼や敬意を生むものだった。文学作品にとって作者の人柄というものは大いに大切で、読者はなるべく予断なく作品を読むことでそれを見きわめるすべを身につけてほしい。これは全ての文学作品、文章(そして今はフェイクニュース、SNSの問題がある)が善意で書かれている訳ではないということとも関係している。本を読むという事は他者の声に耳をすますという姿勢を私に教えてくれた。本を読み考え、人との出会いがより時間をかけた粘り強いものとなる、そんな経験が多くの人に訪れてほしい。(p.165)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

上の文には、文学作品において作家の人柄という物は大事で、読者はそれを見きわめろと書いてある。そして、今は多くの作品が善意で書かれているわけではないという。


感じてはいたけど(多分)、言語化できていなかったことを言ってくれていると思った。

そう、作家の人柄は作品に現れると思うし。立派というか、誠実で、人柄の信頼できる人の作品に近づきたいと思うのだ。これは、一歩間違えると、作家に性格の良さまで求める圧力になってしまうので注意が必要だが、友達を作るときに僕の場合あえて、怖い人とか、破滅した人、正義を一切省みず快楽にのみ走る人に近づきたくないように、作品を通して作家に触れる時、なるべく優れた人格の人に触れたいと思うのだ。


例えば石牟礼道子さん、の作品を読んでいたら、この人は自分の成功なんて願っていなくて、もっと深い世界を観ていると分かる。命の深みとか、真理のような者に触れようとして書かれているんだな。普段から、注意深く考えて生きているんだろうなと分かる。実際、石牟礼さんに会った人の話しを聞くと、彼女がどれだけ多くの人を励まし、優しい人物だったかを知らされる。

最近会った作家で尹雄大さんという方がおられるが、彼もそうだった。人の痛みを見つめ、人の悲しみや痛みに寄り添った文を書く人だ。権力におもねったり、成功を急いだり絶対しない人だという事が文章からも伝わってくるが、話をしていても、やっぱりそういう人だと思った。

当たり前なんだが、その人の性格や、今何を願って生きているのか、何を見つめて生きているのかは、嫌でも作品に現れる。

今僕は、マンガや文章を書いているが、自分の事も筒抜けになっていると思ったのだ。そう考えた時に、どういう物を書きたいか、書くべきかより注意深く見つめていきたいと思った。そして、作品から自分の精神状態が分かるはずだ。破滅的なときは、やはり破滅的な作品になっているように思った。

なるべく安定して、いい作品を描いていきたいと思ったのだ。


現代に求められているのは、そういう誠実な作品を描く事だと思う。

ただ、自分が善に立って書けるとは思わない、善に向けて描きたいという願いを持つこと位しかできないのだろうが。


(終)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?