褒めるという行為には相手を取り入れようという意思がないか?
教員を目指していた頃に、指導教員に「褒めることを心がけよう」とアドバイスされて以来、私は相手を褒めることを無条件で良しとしてきた。
しかし、最近、褒めるということは必ずしも善いことではないのではないか?と問い返される事が何回かあった。
私は人のことをなんでも評価したり、価値づけたり意味付けたりすることを善い事としていた。
でも本当にそうなのか?
ただただ、相手の話を聞くということができないものか。
誰かと話していても、私はいつも、相手のことを評価する。相手の、この話は面白いけど、この話はあんまり面白くないなとか。
で、相手を褒めることをしなきゃと思っているのだけれど、相手を褒めるという意欲の根底には、どこか相手を自分に取り入れようというところがあるのではないか?
相手を褒めることを通して相手をわかっている自分を認めさせようあるいは、自分で納得していようとしていなかったか。
そこには支配の意思がないとは言えない。褒めることによって相手をある意味で自分に取り入れようとしてしまう。つまり気に入られようとしてしまう。
こうした思いを手放して相手のことをただ見つめることはできないか?
一体、誰かを・何かを評価するとはどういうことなのか、そう考えると非常に難しいことに思えてきた。いや実際何かを評価するという事はとても難しいことなのだろう。
相手を褒めるときには、必ず自分の価値観によって褒めていた。
褒めることがすでに自分の偏見に基づいた価値観の表出であった。しかしまた、その自分の価値観の表出なしには相手を褒めるということはできるものではないのかもしれない。
だとすれば、褒めるという行為を私は無条件にいいものとしていたのだが、そうではない。そこには「私には評価できる」という慢心がある。
どこか自分の心の中に「おごり、高ぶり」がある。
相手を褒めまくる人がどこか怪しいのはそこにある。(褒めまくる人は、自分の価値観に合わない人は逆に徹底して嫌い見捨てていくのではないか。)
あえて言うとすれば相手のことに対し「おもしろい」とは言えるかもしれない、自分が面白いと感じているということを表出させる。
しかしそこに、「良い」とか「悪い」とか「素晴らしい」とか「素敵」などと簡単に言えるだろうか?
言う必要があるだろうか?
僕の先生がいつも「面白いですね」とは言うが、「素晴らしいですね」とはあまり言わない理由が少しわかった気がする。
評価なしに、相手をそのまま受け取る、そのまま相手を映すような
あり方はできないものか?人間はそのままで価値があるなどと常日頃言っている自分が
すでに非常に差別的に人間を見ているのである。そう言うことを教えられた。
おそらく僕が考えていることなど、すでに誰かが考えているし、なんらかの研究分野で研究されていると思うのだが、そんなことを考えた。
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