ドラマ『大地の子』に見る本願
NHKのBSプレミアムで1995年に放送されたドラマ『大地の子』が再放送されている。(毎週日曜日21:00~)
筆者はこの番組を子供の頃に観た。すでに26年経っているというのは衝撃である。とても面白く、そして悲しい話だったのは何となく覚えていたのだが。26年ぶりに、第一話を見てその重厚なストーリーに圧倒された。素晴らしいドラマだと思った。
『大地の子』は第二次世界大戦で、中国に取り残された日本国籍の子供達の人生を題材にしたドラマだ。彼等は、一般的に「中国残留孤児」と言われる。彼等は日本人として生まれたために、中国でひどい仕打ちに会う。苛烈な体験をした彼らの人生をテーマにした小説やドラマは多い。
『大地の子』は小説家の山崎豊子さんが一生懸命取材をし、8年がかりで出来た大作だ。
山崎さんが『大地の子』に込めた思いが次のように残されていた。
「中国大陸のそこここで、自分が日本人であることも分からず、小学校にも行かせてもらえず牛馬の如く酷使されているのが本当の戦争孤児ですよと…、私はこれまで色々な取材をしましたが、泣きながら取材したのは初めてです。敗戦で置き去りにされた子どもたちが、その幼い背に大人たちの罪業を一身に背負わされて『小日本鬼子(シャオリーベンクイツ)』、日本帝国主義の民といじめられ耐えてきた事実、日本の現在の繁栄は戦争孤児の上に成り立っているものである事を知ってほしい。大地の子だけは私は命を懸けて書いてまいりました」(2013年(平成25年)11月19日、NHK総合テレビ クローズアップ現代)
とにかく、観ていて辛かった。少しだけ、内容をかいつまんで説明したい。主人公の松本勝男は、長野県戸倉町から満州に入植した満蒙開拓団の子供だった。しかし、戦況が悪化しロシアが攻めてくると、逃げざるを得なかった。その途中で、ソ連軍と交戦することになり、家族も仲間たちもほとんどが殺される。命からがら生き延びた勝男だったが、助けてくれた中国人の家庭でひどい仕打ちにあう。日本人の子としていじめられ、奴隷状態になる。その家を逃げ出した勝男だったが、今度は別の人身売買のブローカーにつかまり、家畜同様に路上で売りに出される。しかし、そこに現れたのが、勝男の中国でのもう一人の父になる陸徳志であった。
勝男(一心)の養父となる陸徳志
陸徳志は小学校の教師であった。徳志は「人間の子供を売るなんてそんなことをしてはいけない」「日本人だって人間ではないか、私が家に連れて帰る」と言い、売り物にされていた勝男を救い出す。
このシーンに大泣きした。こういう人に人間は救われるんだと思った。もう本当に救われた気がした。それまで『大地の子』に出てきた登場人物はほとんど皆が、勝男のことを日本人ということで差別し、嫌い笑った。(そこには日本軍が中国で酷い事をしたという事実がある)そして、そのような子どもは奴隷として扱っていいとみんな人間として見ていなかった。逆もしかり、日本人は中国人やアメリカ人のことを馬鹿にした。
しかし、ここに現れた陸徳志だけは、勝男を「同じ人間」として見たのだ。その事実に、それを見た私は救われた。もちろんこれは、物語だけれども、こういうことが沢山あったのだと思う。誰かの慈悲の心、徳のある行いによって人は事実救われるのだと思った。
今まで、家族を失い、とんでもない苦労をしてきた勝男。しかし、陸徳志先生の家で「陸一心」と名づけられて、そこで初めて学校に行く事も出来、人間らしい生活を送ることができた。
はじめて学校に通った一心(勝男)
その後、中国共産党の台頭による混乱に巻き込まれ、再び家を追われた陸徳志一家は、命からがら逃げる。しかし、そこでまたしても今度は中国共産党につかまる。「この子供は言葉が変だ、日本人の子供ではないか?」つめよられる陸徳志は「この子は私のたった一人の子です。間違いなく私の子です。この子を助けて下さい。」という。そして、その言葉に心を動かされた中国共産党の兵士は、一心を父の元に返す。
ここでも、泣いた。
これを観て思ったのは「何人だから」とか「どうせ何々人は」って言って、国籍や生まれた国で人間を差別することがいかに愚かかということだ。今日本では、排外主義がすごく広がっている。何かそこには、完全に人間へのリスペクトを欠いている。馬鹿にした嘲笑が入っている。特に、韓国の人や中国の人に対する差別は酷いものがある。政治家までも、そうした差別に加担する始末だ。
人間は何人かなどと言う事で決まらない。あえてそれでも人間の価値が決まるとすれば「その人が何をするか」によって決まるのだ。陸徳志先生のような人は世界中にいる。そして、こういうたった一人の行動で誰かが、何かが救われるのだと思った。
考えてみれば、これはすでにお釈迦様が言っていたではないか。人は地位や身分や何人かなんて事で決まらないんだって。
「人は生れによって賤しい人やバラモンになるのではない。 行為によって賤しい人ともバラモンともなる。」スッタニパータ
この陸徳志の一言に私は心から救われた気がした。この一言に会いたかったんだと思った。「この子は人間だ。日本人だって人間だ。」
「どのような子どもでも救われなければならないんだ」というこの一言。これは阿弥陀如来の本願につながっていると思う。
阿弥陀如来の本願とは、全てのものを誰一人も漏らすことなく救うということだ。阿弥陀如来の本願は皆を救うという願いだ、たった一人でも仲間外れをつくったらそんなのは本願ではないというのだ。
これは、陸徳志先生の一言と重なる。陸先生の言葉と本願の根っこは同じだと思う。
つまり、本願というのは、仏教徒とか、仏教を信仰している人だけに関るものではなくて、人間の中にある深い願いなのではないだろうか。
出会ってみたらその言葉にずっと出会いたかったのだと分かる。
大げさだと思われるかもしれないけど、人生で出会うこの陸先生の言葉のようなものに私たちは救われるのではないか?具体的には本願は、こうした人々の言葉や行動の中に現れるのではないか?
だから私は「日本人だけ特別だ」とか「〇〇人だけ偉いんだ」とか「神の国の子ども」みたいな言説が好きになれない。それは必ず仲間外れをつくっていくから。自分の国の人が特別立派だという考えはとんでもなく不遜だから。
誰一人、日本人として生まれたくて生まれたものはいない。中国人として生まれようと思って生まれたものもいない。韓国人もアメリカ人も、皆それぞれの縁の中でその国に生まれたに過ぎない。だからどんなひとも救われなくてはならない。
どんな人間も差別しないという教えしか私は信じることができない。
小さい頃陸先生のカッコよさに憧れたことを思い出した
(終)