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日記2021年8月22日 業縁の存在

メモ

先日仏教を聞かせてもらっている先生の話で、すごく大事だと思ったことがあった。忘れないようにメモしておきたい。

人間は根本的な苦しみを抱えている。人は二つの意味で根源的な苦を抱えざるをえない。

一つは「何のために生まれたのか、何をしたらいいのか全くわからないこと」。そもそも意味を欠いているということ。何をして生きたらいいのか、何しに生まれてきたのか知っている人は誰一人いない。意味を欠いて生まれてきた。このことがあらゆる苦の根底にあるように思う。

二つ目は「業縁存在(ごうえんそんざい)であるということ」。これはつまり、縁によってはどんなことが起こるかわからない存在だということ。縁に左右される存在であり、またその縁は全くコントロールできないということ。これが非常に厳しい。卑近な例で言えば、なぜこの親の元に生まれたのか。なぜこういう姿形、能力で生まれたのか全くわからない。さらに、縁さえあれば、次の瞬間死んでしまうかもしれない身を生きている。大阪の繁華街で2020年10月、ある高校生が飛び降り自殺をした。そのとき、たまたま下にいた大学生も巻き込まれて亡くなってしまった。全くの他人である。たまたまそこを歩いていて巻き込まれてしまった。あまりにも痛ましい。このことを一体どう説明したらいいのか。日頃の行いが悪いとか、運が悪いとかそういうことを言う人がいるかもしれないけれど、そういうことではない。本当に縁でしかない。この大学生が僕であってもおかしくなかった。たまたま僕がそこに居合わせなかっただけなのだ。さらに、高校生はなぜ死ななくてはならなかったのか。一体なぜそうなっているの分からない。でも縁さえあれば私たちはどんな目にも遇ってしまう。

こうした二つの意味で人間は苦を抱えている。まず仏教とかあらゆる救済を考える場合、こうした人間存在の悲しみから考えなければならないように思う。何かしたら「運が良くなる」とか「良いことが起こる」などという教えでは全く間に合わないと感じる。

(終)







(追記)

「いいことがいっぱい起こる」みたいな売り文句のものを見ると、私はなんとも言えない悲しい気持ちになる。心から涙が出るとでもいうのだろうか、苦しくなってしまう。それは、深いところで人生を価値づけ、意味づけしてしまっているからだと思う。自分の人生に「いいことがいっぱい起こる」みたいな価値観を持ち込むことが、実は他者の人生もどこか測っていくことになるというか、非常に深い”思い上がり”があるのだと思う。でも、命って、そんなもんではないと思う。命はもっと厳粛なものではないか。価値づけ、意味づけを許さないものだ。とはいいながら、自分もそこから離れられない。いつも、人より少しでも上に立とうとするし、人よりちょっとでも良くなろうとする。この努力主義とか、向上主義は一体どこから来るのだろうか?そのことを考えてみたい。

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