昨日モヤモヤしたこと

NHKで『逆転人生』という番組をやっている。ある人の人生の中で実際あったことを取り上げる番組だ。困難を潜り抜けて、その困難をばねに生きていった人を毎回取り上げている。昨日の回は「宗教2世」の話だったので何だか気になって観た。

「宗教2世」の問題とは、親が新興宗教などに入っていて、子供に対しその信仰にのっとった教育をする事である。その事自体が必ずしも悪なわけではない。ただし、その教育によって子供の自由な意志や教育そのものが阻害されることがある。それが、近年「宗教2世」の問題として様々に取り上げられている。

今まで、親が新興宗教に入っていて、厳しい思いをしてきた方が描いてきたマンガ、またそうした問題をテーマにしてきた作品をいくつか読んできた。

この問題は非常に深刻である。というのは、子供は全く白紙の状態で生まれてくる。しかし、親が狂信していると、その子供を生まれた時からマインドコントロールしてしまう。そうすると、子供は、何が問題かすら分からなくなる。さらには、生まれた時からその世界しか知らないので、いざその世界から脱出しようとしてもそれが困難な状態になってしまう。

実際昨日の番組でも、教団から酷い事をされ追放されたのに、行き場所がその教団しかなく、ひどい扱いをされながらもまた、舞い戻っていく様子が描かれていた。

昨日の番組で逆転人生の主人公となったのは、作家の坂根真実さんだ。彼女は、自分がした辛い経験を『解毒』という本にまとめ出版している。多くの悩む「宗教2世」の方を救う力になっている。

番組を観て、宗教2世の方が置かれている現実の厳しさを知り絶句した。一般的な家庭で育った子供では想像できないような問題が様々に起こる。例えば学校に通っても、恋愛もできない、部活も入ることができない、行事にも参加されない。それにより、子供は様々な選択の可能性が失われていく。唯一残されたのは教団のために働く人間になることである。教団の意志に反する事をすれば、地獄に落ちると言われる。子供はそれを信じるしかない。暴力によって監視され、自由意思を奪われていく。善悪が教団によって決められていく。

私が思うのは、救いに何らかの条件を付ける宗教は本当の宗教と言えるのかということだ。ある特定の神を信じている私たちは救われる。そして、それを信じない他の人は救わない。そのような形の宗教は差別を生む。もし、その宗教が本物であれば、そんな心の狭いことを言うだろうか?それは、何でも分けたがる人間の自我の延長ではないか?

今ここで、坂根さんの歩みを説明することは省略するが、多くの人にこの現実を知ってもらいたいと思った。これは一つの社会問題だ。なぜなら、多くの子供が虐待されたままでいるからだ。

ところで、ここからが本題なのだが昨日のこの番組を観ながらモヤモヤしていた。モヤモヤを感じていたのは私だけではなかったようだ。ずっと家族問題についての仕事をしてきた臨床心理士の信田さよ子先生が次のようなツイートをしていた。

信田先生は「『逆転人生』という番組のコンセプトとミスマッチ」「深刻な問題を感動へと無害化させている」と批判している。

私が感じた問題もその辺りのことだった。この問題は「逆転」などと言う単純な物語に回収してはいけないのではないか…と感じたのだ。もちろん出演している坂根さんを批判したいのではない。ただ、この番組に当てはめるのは無理があるのではないかと感じたのだ。

この問題はあまりに重い。カルト宗教から抜け出したとしても、その影響をずっと抱えながら生きざるを得ない人が多いだろう。カルトに入っている時を悪、カルトから抜けた後を善などと簡単に他者が規定してはいけない性質の問題だと思うのだ。そういう事をすればその人の生き方全体をどこか軽く見ることにならないか?「逆転」って言って「スッキリ」しているのは視聴者や番組を作っている人だけでないか…。

生まれる家庭は選べない。子供は生まれた時からその宗教の中で育つ。確かにその宗教は悪い部分が沢山あるのだけれども、その中の出会いで子供は育たざる得ない。その中で価値観を形成し、大切な出会いもするだろう。どんな愚かしく見える宗教にも、そこに傾倒する人には何らかの理由がある。そうした複雑さを丁寧に見ていかずに「人生の逆転」などと、他者が規定することに何だか、それはそれで暴力的だと思ったのだ。

番組の最後で、新興宗教にはまっていったお母さんにも、宗教にはまるそれなりの理由があった、だから可哀そうだった…という演出がされていた。その通りなんだけど、「可哀そう…」という一言で片付けていいのか?お母さんがそのように歩まざるをえなかったことには私たちが想像しているよりも根が深い問題があるのではないか?ところが、番組のパーソナリティーも含め、「可哀そうだったね、こっちの世界に戻ってきてよかったね」という視点で番組を進めているように見えた。

この辺りにも、テレビの限界を感じるのだが、やはり、こうしたデリケートな問題に関して扱うときは、専門家を呼んで番組を進めていかないといけないと思う。そうでなければ、問題の深刻さを捨象して安易に善悪・勝ち負けという世俗的な文脈に回収してしまうという事が起きる。昨日も、その番組のレギュラーゲストの一人が、

そのそも世の中が冷たすぎるから宗教にはまらざるを得ない。もっと、皆が声をかけ合ったり助け合ったりする世の中になれば、こんな宗教にはお母さんもはまらなくて済んだのではないか?

という話をしていて、オイオイ待ってくれと。世の中が弱者に冷たいのは事実。失敗した人に冷たいのは事実。しかし、それを一人一人が助け合ってないからだという風に回収してはならない。一人一人が弱っていて、助け合えないような社会になっていることが問題なので、これは公的な問題であり、政治の問題でもある。そもそも、皆が余裕がない社会になっているのだ。それを捨象して、声をかけ合わない一人一人に問題がある、冷たい世の中だね…という視点は自己責任論を強化していくものでしかないだろう。昨日の番組は、問題を社会問題として見る視点が抜け落ちている。個人の心情の問題、家族の問題、感動物語のレベルで終わらせてしまっている。日本のテレビ番組全体に敷衍するのは雑だが、どうも、問題を社会問題として皆に提示することをせずに、感動物語で終わらせてしまう傾向を感じる。その点韓国の映画やドラマは社会問題にまで引き上げている気がする。

私は宗教そのものが悪いものとは思わない。信仰そのものは人間にとって大事な物だ。ただ、カルト宗教と言われるような暴力や洗脳を使ったり、破壊活動を行うような宗教には問題がある。「宗教=悪」とか「宗教=いかがわしいもの」ではない。昨日の番組では、そのあたりの注意も十分なされているように思わなかった。つまり、新興宗教への偏見を助長しないか心配だった。

他にも、モヤモヤした点を挙げればきりがない。なんとなく、このモヤモヤに大事な物があると思って、メモとして置いておきたい。















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