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他人を苦しめながら自分が苦しいと泣き言を言う悲しさ

【メモ】

私はどこまでも自分の痛みは主張するのに、他人の痛みには鈍感だ

全く他人の痛みを感じることがない

例えば、何か他人に迷惑をかけて謝らなくてはならない時も

苦しんではいるが、その苦しみは相手の悲しみや心の痛みを思ってということではなくて、よくよく見つめると、「自分がこんなに苦しんでいるのに。辛い。なんで私がこんな苦しまなければならないのだ」という事でしかない。他者への痛みは萌してはいるが、それよりもはるかに、自分の痛みへの自己主張の方が強いのである。

しかし、浄土真宗の視点から考えると、これは一概に個人の能力の問題とは言えないと思う。つまり、私個人が「自分の痛みには敏感で、他人の痛みに鈍感」であり、それを改善して問題が解決するのではない。人間の持つ構造にある他者への痛みへの鈍感さは治る性質のものではなく、人間存在が抱えざるを得ない問題と言えると思う。しかし、ただそれは人間の構造だと言えば開き直りになってしまう。しかし、親鸞教学においては、阿弥陀如来はそうした人間の在りようを悲しむ存在として説示される。

つまり、阿弥陀如来にそうした人間の自己中心的あり方が悲しまれることによって、自分の問題点が見えてくる。そこにおいて、阿弥陀如来は、そのお前の自己中心性を無くして、他人の事を思えというのではなく、「念仏申せ」「念仏してくれ」と言ってくる。これが浄土真宗のよく分からない所である。しかし、また決定的に大事な点である。つまり、そこで「自己中心性を直せ」になると、直せない人を我々は裁いてしまう。見つけ出して裁く。そうすると、これは能力の問題になる。しかし如来は自己中心性を悲しみながら念仏せよとしか言わない。念仏したらお前を助けるという。その時、個々の行動は問題にならないのだ。しかしそこにおいて、それぞれが自己の姿を教えられることにより、行動が変わってくるのだと思う。しかしそれは外から「良い」あり方が規定され裁かれる事にはならない。

しかし「そのままでいい」と言われた人は「そのままでいい」とは思えなくなるのだ。阿弥陀に問われながら生きる生き方が与えらえるのだと思う。

(終)



(本当にそうなのか?なぜ念仏なのかという事をもっと丁寧に考える。ところで、自分は何となく仏教を勉強してきて「仏教を少しは分っているつもり」だったのだけれど、「全然分かっていなかった」ことに気づきました。本当に何も分かっていなかった。それなのに、偉そうに分かったようなことを言っていたのが恐ろしい限りです。初心に戻って、仏教を勉強し直そうと思います。)

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