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大谷哲夫編著『永平廣録 大全 』読書ノート(9) 道元の転機

 この大谷哲夫編著『永平廣録 大全』を読み進んでいて、これまでなんとなく気になっていたのだけど、今一つよくわからず、証拠が得られていなかったことが、氷解した。
 巻3は、寛元4年6月に、大仏寺を永平寺に改称して、仏法を説くことに専念するのかと思いきや、道元の上堂語には、やる気のない弟子たちへの他人行儀な挨拶(上堂語196,206,218)が頻出し、君たちが弟子だと僕の評価も下がる(上堂語197)、居眠りばかりするのなら坐禅はやめなさい(上堂語205)の後に、突如として登場する。

 上堂語227は、寛元5年が宝治元年に改元される1247年2月末まさにその前後に行われたとおぼしき上堂語。
 仏法を説くわけでもなく、現前の弟子たちへのメッセージでもなく、ただただ道元がご機嫌であることが伝わってくる詩です。
 
 その上堂語227の読み下しはこんな感じ。

千の花、五葉(ごよう)を開き、万の鳥、三春を啼(な)く。此(これ)は是(これ)、第一句。

仏(ぶつ)は是(これ)、己躬(コキウ)の做(な)すもの、法(ほう)も別人の付(ふ)するにあらず。此は是、第二句。

唖子(オシ)の喫麭(キハウ)、もとも苦しく、張公(ちょうこう)、酒を喫し酩酊(メイテイ)。此は是、第三句。

三句に渉(わた)らざる、又作麼生(また、そもさん)。

拍(ハク)を拍(う)つには元来(がんらい)、渾是令(ウシレイ)、
リウラレウ ラウリン(りうらりょうらうりん)

 リウラレウ ラウリンは、変換不可能な漢字なので、カタカナにしたが、韻を踏んでいないことも、律詩の式だけど五五、五五、六六、七七と定型性を破っているところも、お酒を飲んで酔っぱらったという言葉が出てくるところもじつに珍しい。

 現代訳は文学者寺田透訳を紹介します。
「千輪もの花がそれぞれ五輪に開く。万羽の鳥が早春中春晩春と囀り通す。これが第一句。仏なんぞも個我のはからいに出たもので、その法もほかの誰かが授けたものではない。これが第二句。饅頭を食う唖はいかにも苦しげなのに、酒を飲んでよっぱらう男には事欠かない。これが第三句。こんな三句とかかわりのないどんなものがあるか。拍子をとるのさ。それにはもともときまりがあり、リウラリョウ、ラウリンとやるのさ。」

 なんでこんな上堂語が突如ここに登場するのか、廣録を読んだときに謎だと思っていました。

 今回、大谷大全を読んで、鎌倉から寿福寺三世の大歇了心(だいかつりょうしん)が道元に会いに来たのだとひらめきました。実は僕は、この半年後に道元は鎌倉で了心に再会したと考えていたのですが、そうではなかったのです。
 道元より12年早く宋から帰朝し、鎌倉で栄西が開山し実朝や北条政子の菩提寺である寿福寺住持だった了心は、道元の守護者として、永平寺に道元の様子をみにきたのです。了心は幕府から、新しく寺(のちの建長寺)を開山する許可を取り付けていて、鎌倉に来るよう説得にきたのです。

 こう考える理由は、続く上堂語232,233に黄龍慧南語録からの引用 が連続するからです。出典考証は非常に大事です。了心は、建仁寺から入宋した先輩で黄龍派に学んだとされています。著作に「楞厳経心書」(現存せず)もあるそうです。
 また、了心は藤原一門でもあります。だからそのあとで、藤原一門とつながりの深い後深草天皇の誕生日を祝う上堂語247も登場するわけです。

 了心が会いに来てくれたことが嬉しかったのだと思います。それがこの詩に表れている喜びではないでしょうか。

 そして、これが転機となり、道元はこの年8月に鎌倉に行きます。でも、鎌倉滞在は半年だけで、翌宝治二年(1248)3月に永平寺に戻って、『正法眼蔵』75巻と『永平廣録』の完成に打ち込みます。

 了心については、詳しい史料に出会えていないのですが、1248年に鎌倉寿福寺三世の職を離れて、京都の建仁寺九世になります。おそらく同時に建仁寺十世を円爾弁円にして、留守中の寺務を任せ、自分は永平寺に同行したのだと思います。これで、正法眼蔵75巻と廣録十巻の高い完成度の説明がつきます。

 廣録最後の上堂語531で、「青原白家、三盞の酒」と3つの盃に酒が注がれていることの説明もつきます。盃が三つあるのは、鎌倉材木座の光明寺の開山、然亜良忠も一緒だったと思うからです。彼は1248年春、京都にちょっとだけ顔を出して、善光寺にいくといって姿を消します。

 大谷大全のおかげで、道元の謎がひとつ解明できました。


 

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