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オブジェを美術作品と勘違いしている現代アート作家と観客がいるのではないか?

現代アートといえば、マルセル・デュシャンの「泉」(1917年)が有名である。

台の上に、男性用少便器の朝顔を横にして置いた展示。これがアートで通るなら、何をやってもアートになる、くらいの意識改革を、観る側と創る側にもたらしたと思われる。

現代アートの作品は、オブジェと呼ばれるが、それはなんでもテキトーに置いてもまかり通る。

本当は、まるで違うのだ。

現代アートは、「作品(ピエス、ピース)」という美学的存在を拒否して、「物体(オブジェ、オブジェクト)」という無名の存在として、観る者の前に姿を見せるのだ。

すると、観る者は、全身(あるいは五感の)の感覚を活性化させて、目の前の物体との関係性を構築することが求められる。


例えば、デュシャンの「泉」の場合、「どうしてトイレの便器を芸術作品として展示することが許されるのだ? 許せない!!(またはオモシロイ!!)」という反応をすることは、肯定的であっても否定的であっても、最悪な反応となる。


常識的に考えることが、最悪である。過去の記憶をたぐるのではなく、今の状況を凝視するのだ。

好ましいのは、「おや、なんだろう。この不思議な形をした陶器は? 撫でてみよう。冷たくて、固くて、ツルツルすべすべしてて、気持ちいい。穴が開いてるぞ。何の穴だろう。 製作者と思しき男性は、葉巻きの灰を落としている。灰皿なのだろうか。」てな具合に思考することだ。そして、どこかの時点、何かのきっかけで、その時空間において、その物体が受け入れるであろう、もっとも妥当な関係性を結ぶのだ。

まことに残念ながら、現代アートにおいて、オブジェと正しく付き合っている例は少ない。

たから、荒川修作は、いつまでたっても理解されないのだ。

バイオスクリーブハウスに十日間通ったが、少なくとも我々のいる間に、アメリカ人は一人もここに姿を現さなかった。彼らは、荒川作品と対峙する方法を理解していないのだ。


バイオスクリーブハウスを論ずるにあたり、現代アートについての議論が不可欠であるという気がしている。

* トップ画像は、デュシャンが「泉」の前で喫煙している場面。「俺にとって、これは灰皿である」と示しているかのようだ。











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