コロナウィルス禍とインパール作戦、 ビルマ戦線からの連想(1)

九州の過疎地に住んで、テレビのない生活をしていると、今は山菜シーズンで、ツワブキ、イタドリ、タラの芽を食べて、春を楽しむことができる。

しかし、コロナウィルス禍によって、妻の仕事はすべてキャンセルとなった。この先、どうやって食べていけばよいかと悩んだ末、今朝はハヤトウリの種(実)を庭に蒔いた。食べるものさえあれば、気分は明るくなる。

妻は日頃できない練習(彼女はトランペット奏者なのだ)をし、私は普段考えないことを考えている。


令和という元号が、万葉集から採られたということで、昨年から万葉集のことが話題になる。

一方、コロナウィルス禍に際して、疫病対策も庶民の経済的支援もモタモタしているのみならず、コロナウィルス検査をさせないでいる日本の政権のことが批判されている。


目に見えないコロナウィルスに感染しないために、或いは人を感染させないために、どのように生きていけばよいのか。

そんなことを考えていたら、インパール作戦を思い出した。


「ジャワの天獄、ビルマの地獄、ガダルカナルは死ぬところ」と言われた、第二次世界大戦のビルマ戦線には、30万人の日本の若者が送り込まれ、戦闘ではなくてむしろ餓死、熱帯病、敵の機銃掃射、渡河中の事故、などで20万人が戦死、残りの10万人も死ぬ寸前まで追い詰められて、戦後はイギリスの捕虜となった。


会田雄次の「アーロン収容所」、古山高麗雄の「フーコン戦記」は、ビルマ戦線と戦後を知るうえでオススメだ。

有名なインパール作戦は、ビルマからインド領のインパールまで行軍する作戦で、食料や医療品の補給もないままに行われたために、白骨街道と呼ばれたほど、死屍累々となった。


現地の司令官と参謀は、この作戦に反対したものだから更迭されて、日本から牟田口廉也が送り込まれて、無理やり実行した。


上から馬鹿げた作戦を押し付けられて、無駄に死地を彷徨うところが、今のコロナウィルス禍と似ている(かな)。


相共に百人一首を憶(おも)ひだしカルタをつくる すべてかなへり (ナコンパトンにて、森田丈夫)

捕虜となった若者たちは、昭和21年のお正月に、お互いの記憶をもとに、百人一首のカルタを作った。そして百首すべて揃ったときの感動が短歌になって残っている。


おそらく収容所中の若者(カルタ作りに貢献していてもいなくても)が、この1カロリーもない、文化的な作業の完成に驚喜したことであろう。

人間は文化的な生き物であることの証が、ビルマの収容所で得られたことは、後の時代を生きる者も共有してよい歴史ではないか。













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