「観覧車」の話

「終わりゆく時代」への叫び。


見てきました

「劇場版シティーハンター 天使の涙(エンジェルダスト)」、深夜バルト9で見てきました。
これは少なくとも「シティーハンター」が好きって言っている人は見ておかないといけない、そう思わされました。

今や「ラーメンを食べにラーメン屋に入ってラーメンがちゃんと出て来る」と言う喩え方までされるほどに「大いなるマンネリ」の権化と言う認識が強まっている「シティーハンター」シリーズですが、だからこそ出来るあれやこれやがぎっしり詰まっていて、これを映画館で見られる「幸せ」と、その内容の「切なさ」に心をかき乱されました。

※基本的にネタバレ全開の内容です。ご注意ください。

「シリアスな方」のシティーハンター

物語としては獠の過去、今までも定期的に挟まれてきたシリアスな方のシティーハンターです。槇村とか海原とかが出て来て、獠の過去に絡むゲストキャラクターが出て来ては死ぬ。「皆の知っているシティーハンター」を忠実になぞった前作「新宿プライベート・アイズ」よりもさらに「いつものシティーハンター」だと思います。
筆者は再放送でシティーハンターを見ていたのですが、自分の中のシティーハンターのイメージは「ギャグもシリアスも両方やる」って感じでした。だから、実は「新宿プライベート・アイズ」の時は半分だけ帰って来たような、そう言う感覚だったのです。好きなのも「現代の新宿の表現を極限まで追求した美術関連のアレコレ」と「徹底して安心感を意識した演出」で、物語自体にはそう語るところもないなぁと思ったわけです。ああ、いつものTVSPくらいの規模感だなぁと。
今回も大分話としては良く言えばシンプルに、悪く言えばこじんまりしています。登場するキャラクターの人数も多くないし、物語自体も「最終章への助走」と言うところが主で、だからこそ数人「スペシャルゲスト」が登場し、今後の「シティーハンター最終章」周辺の展開への布石を打つ余裕もある。そう言う構造でした。

だからこそ、細部に仕込まれた「時代への反発」のようなものに筆者は「切なさ」を感じ、心をわしづかみにされてしまったのかも知れません。

「チャーハンだけで良い」のか?

もう令和も五年だと言うのに、劇場まで来て聞いているのが「RUNNING TO HORIZON」。これをどう考えるかって、実は大事だったのかも知れません。
何年前の曲でしたっけ。89年だから……単純計算34年?「良いものは良い」と言うのはその通りなのですが、聞かせている側からしたら……どうなんでしょうね。もしかしたら「この時代に劇場に足を運ばせておいてこう言う曲しか聞かせてあげられない」って思っているのかも知れない。
そう言う勘繰りを「お客様が聞きたいであろう部分を流し終わった直後に早々と切り上げる」シーンを見た瞬間に少しだけしてしまいました。

確かに、今年は2023年。最新作に目を向けると、シティーハンター以外にもたくさんの作品が世に出ています。なら、そっちを見ても良いのです。せっかく映画館に来たんだし、何なら前情報とか全部捨てて突然変な作品を見ても良い。でも、そこで「シティーハンター」を選んでいるのです。多分、そこにあるのは「安心感」。いつもと違う店に入ったのに、注文するのはいつも食べているチャーハン、みたいな。「チャーハンなら失敗しないだろ」って言うのは食べる側からすれば当然の心の動きかも知れませんが、食べさせている側がその事実を快く思っているとは限らないのです。
「チャーハン以外も作れるのに、お客様はチャーハンしか注文しない」。これって、どうなんでしょうね。「チャーハン以外に興味を持たせてあげられない自分」を不甲斐なく思ったりするんでしょうか。それとも「チャーハンはとりあえず売れたから良し」なのか。少なくとも、それなりの回数そう言う現場に「お客様に提案する側」の視点で立った経験がある自分にとっては、それなりに「他人事ではない」感覚がしてしまいました。

もし、そう言うのを全部呑んだうえでファンサービスに徹していたとしたら。「新宿プライベート・アイズ」の文脈に、ちょっとした「影」が差すのを感じます。普通ならこう言う方向への深読みはあんまりしないんですけど、これは「そう言う方面のごたごたを色々と乗り越えて来た」シティーハンターだし、監督もその辺酸いも甘いも経験しているであろうこだまさんなんですよね……

「古びた観覧車」

そう言うわけで、ある種の「警戒信号」が点灯した冒頭からしばらく話が進んだ時。筆者はスクリーンから「ボディブロー」を喰らいました。
それが、なんやかんやあってしばしお台場巡りを楽しむ流れになった獠一行が立ち寄った「パレットタウンの観覧車」です。
面白さに対しては「今更目を凝らすまでもない」くらい信頼性があるからこそ、いつもより少しだけ映画を見る自分の「視界」が広くて、だからこそ気付けてしまったのです。なんとか現代にも溶け込んで生きている獠と、彼の過去を追いかけるゲストキャラクター陣営、すなわち「時代に置いて行かれた」者達との断絶が。

この観覧車、現在は既になくなっています。だから、別にフィクションとして「思い出の観覧車」を描いても構わないはずのところなのに、何故か古めかしく描かれていたのです。直後に香との「いつものヤツ」が繰り広げられるので特に気にせずに流すことも出来るシーンではあったのですが、一回しか見ていないのに鮮明に思い出せてしまいます。あからさまに、恐らく俺達に伝わるように(或いはそれを願うかのように)汚れやサビがしっかり描き込まれた観覧車の美術。ゲストキャラクター達の行く末を暗示する演出だったのかも知れないけど、筆者にはそうは見えなかったのです。
そして、そこからも特に代わり映えする事のない物語の進行と、当然のように訪れる「物語の終わり」。それに花束を添えようとする海原神と、待ったをかける獠と言う構図で物語は締めくくられます。

いつも通りのシティーハンターが演出する、いつも通りの映像体験。エンディングもいつものGet Wildに「あのタイトルバック」をそのままなぞるような内容で……それらに幸せを感じつつ、全く同時に心地良い「苦み」をかみしめながら始発を待っていました。

「お台場」と言う場所の「実像」

たまたまこの二日前(つまり日曜ですね)にそのお台場を見て回る機会があったのも、何かのめぐりあわせかも知れません。
レゴ・ディスカバリーセンターに入ろうとする筆者の目に映ったのは「ああ、これはこれから壊れるやつだな」と言う雰囲気がする老朽化した建物の姿でした。その建物に落ちた「影」は、近いうち……それこそ一刻も早く手を入れなければ長くは保たないだろうと素人にも感じられるような、そんな危うさを見せていました。
お台場が観光スポットとして動き始めたのはもう四半世紀ほど前の話になります。パレットタウンは再開発に向けて動いていますが、いつもはユニコーン側ばかり見ていたから気付けなかった「もしかしたらこのまま風化を待つだけかも知れない」景色は、何だか物悲しかった。
「時代」って、こうして終わっていくんですかね。

今回のシティーハンターがこう言う「現実」を踏まえて作ったのかは分かりませんが、この「符合」に筆者は少し思うところがあります。

「俺は死なない」

そして、トドメがこれです。
「新宿プライベート・アイズ」で香に「わたし、変わりたくないんです」と言わせた次にこれですよ。恐ろしい事を言わせますよね。
明らかに見に来た人にトゲを刺しに来てます。それも絶妙に「抜きたくない」場所に刺さるような言い方をする。ズルいですよ。

こんな事言われてしまったら、最後まで見届ける以外ないと思うんですけど……エンタメに着陸させるのが上手いなぁ。


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