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献血に行きましょう、自分にできることをしましょう

自分は子供の頃から身体が弱い。

幼少の頃から「なんだか具合悪い」時間がやたら頻発し、小学校ではよく保健室に通うような児童だった。

保健室で横になろうとすると余計に気持ち悪くなるが、椅子に座ってしばらくまっさらな天井を見つめていれば回復できることを自ら発見できていた天才児の自分は、後に三半規管が敏感なタイプの自律神経失調症という診断が下る。

自分が出生した直後の検査では何も異常が見つからなかった。なんとなく想像がつくが、医者が新生児を診てこの症状を見抜くことはなさそうだ。

母親からすれば、「健康体の子供を産みましたよ」という太鼓判を医者から押されているので、(検査に引っかからないのである意味間違ってはいないのだが)ぐったりする子供に対しシャキッとしろと叱責するだけで、治療らしい治療を受けられる機会はなかった。

具合が悪い時間が長いことが起因して、幼少期から慢性的な食欲不振があり、身体はガリガリだった。

今も時々見かけますよね、小学生くらいで足首とモモが同じ細さじゃないかと感じるほど細い子。自分はまさにあれでした。

ああいった子が笑顔で駆けている様子を見かけると自分は安心してしまう。自分だけが特別に弱くて不出来な人間ではないんだと。

本当なら声をかけて「私も昔それくらい細かったよ。ねぇ自律神経失調症って知ってる?」くらいの話をしてあげたいくらいだ。

もっと言わせてもらうなら「あなたもきっと私のようにオシャレな服が映えるモデル(風)体型に育つけど、オシャレしようとしても例えばお腹が出てたらすぐお腹壊すし、身体を締め付ける服だと具合が悪くなるから結局こういう無難なファッションに落ち着くしかないんだよ」

言ってあげたいね。自律神経は循環器系にも関わってくるから、キツい服を着ると具合が悪くなる算段なんだ。

赤十字血液センターのパンフレットより

毎日、日本のどこかで必要とされている血液。

体重が満たず、また治療薬の関係もあり、自分は献血ができない・したことがない人生を送っており、「200mLより400mL」の理由も初めて知ったので、一緒に載せておきます。

救われるべき命が世の中に溢れているのに、その手助けの一つが自身の弱い身体のせいでできない。

自分が本当の意味で健康な身体に生まれていて、世の中の何人かを輸血で救えていたらと考えると、献血はもはや憧れでしかない。

身体弱いあるあるだが、このような些細な「献血」ひとつ取っても、健康体への憧れや、そうなれなかった自己への否定に走って涙が出てしまうんだ。

健康体でなくとも、日々は楽しく過ごしてるし、語学学習もヨガも仕事も楽しい。

それでもふとしたきっかけで涙が出て、誰かに謝りたくなる。

身体が弱いことを悪と位置付けるのはもちろん間違った思想だ。だが献血で人を救えない自分は「善」と言い切れるのだろうか。

献血以外にも、日頃からこんな感情になる出来事に溢れた生活をしているので、仕方がないものは仕方がないと、諦めて区切って前へ進むしかないという結論ならとっくに出ている。

マイナスにとらわれず、自分が楽しく生きて、自分にできる範囲で人を助けられたらそれで良い。

ここまでの思考に至ることができれば、上々だ。


健康体に産んだはずなのに、なんか変だな、そんなお子様をお持ちの方は、迷うことなく病院に連れて行ってあげてほしい。

今の自分が世に訴えるとしたらまずそれだ。


あと自分は採血に必要な血圧すらも足りていない。

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