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雑記 長生き

考えている、書きたいことを書く。


長寿について

繰り返しこのnoteでも書いているが、最も長生きする方法は

「意識する時間を増やすこと」

だと考えている。

死ぬことは無意識であり、
生きることは意識である。

過去の記事で

人が持つ時間軸の「カイロス」と、この世界に流れる絶対的時間の「クロノス」

について考えたが、人が死ぬと、このカイロスという、自分軸で流れる時間がゼロになる。

だが、仮に僕が今死んでも、この地球は回り続けるし、この世界に時間は刻々と流れる。

つまり、当たり前の話だが、生きることは意識をすることと言える。

「あれを食べたほうがいい、これはダメだ」と健康に気を遣うのに、この無意識について考える人はいないように思う。

僕自身30代になり、意識することなく、できる物事が増え無意識で生きる時間が長くなっている。
だから時間の経過するスピードが速い。

サーチュイン遺伝子(長寿遺伝子)が発見され、NMNという効くのかどうかもわからないようなサプリメントを毎朝飲んでいるが、僕は飲むたびに
「肉体的に寿命が延びても、意識のない時間を過ごしていたら意味がないな」という考えが頭をよぎる。

大人になると無意識でできることが増え、感動したものに感動しなくなり、考える必要があったものも考える必要がなくなる。

そして、意識はどんどんなくなり、人は死(無意識)に向かう。
それは仕方のないこと。

ただ、その無意識に支配され、何も考えず感じずに生きる事は、生きながら死んでしまっているようなものだ。


何も考えずにスマートフォンを手に取って、あっという間に時間が過ぎる。
スマートフォンは人々に様々な恩恵を与えたが、人生でもっとも大切な考える時間を奪い、これからも奪い続けると思う。
ただ、包丁と同じように、使う者の使い方次第ではある。

無意識に蓋をすることは誰にもできない。
だが、意識というものはコントロールすることができる。

美味しいことも、意識して口に出して「美味しい」と言うと、美味しく感じるものだ。

子どものように、楽しいことを楽しいと言って、悲しいときには泣く。

僕はいくら大人になっても大人気ない人間でいたい。

思うだけでなく、感じ考える時間を多くとりたい。

人が生きると言う事は意識があると言うことだから。


柔らかいことは若いこと

寿命の話に通じるが、人は死に向かうとだんだんと硬くなる。
死後硬直というように、人は死ぬと硬くなる。

逆に、生命力のある赤子の柔軟性は凄い。
このことから、柔軟性は生命力であり、柔軟性がある事は「若い」ことと僕は考えている。

大人になればなるほど身体も考え方も硬くなる。
肩が凝ったり、身体が硬くなったり、固定観念に囚われたり、頑固になったりする。


硬くなること、それは、すなわち死に向かうと言うこと。
だから、若くいるには肉体的にも精神的にも柔軟性を持つ事が大切だと考えている。

ヨガやラジオ体操や柔軟体操は、実はかなり、長寿に貢献するのではと考えている。

現に94歳で現役で働いている、僕のおばあちゃんは、毎朝ラジオ体操をする習慣を何十年と続けている。

だから僕もnoteを読みながらの柔軟体操を始めた。

考え方も「絶対に自分は間違っていない」などと頑固になるよりも誰かの意見を「あぁ、そうかもしれないな」
と多少の柔軟性は持ち合わせた方が良いと考えている。

人は放っておいても硬くなり、頑固になり、死に向かう。
言葉遊びかもだが、人を死に至らしめる「ガンは頑固な人や頑張り屋さんがなる」などと言われる。

眉唾な話と一蹴することもできるが、真面目な人ほど肩肘に力が入り、力をずっと入れ続けていれば肩が凝るような、そんな当たり前の因果関係と同じように「もしかしたらそうかもしれない」と柔軟性を持っていたい。


硬さはコントロールすることができないものだが、柔らかさはコントロールができる。
だから、大人になればなるほど、柔軟性を常に持っていたいと僕は考える。


どうでもいいもの

世の中を見渡すと、物も人も事も、無尽蔵にある。

僕は、山や高いビル、電車で、街並みを眺めると

「自分の悩みなんて小さいものだ」といつもそう考える。

だからそういう場所が好きだ。

人は無尽蔵に積まれた、人やモノやコトの、その瓦礫の山から、1つ拾い上げて、それを大きな問題のように考えてしまう癖がある。

本当は極小さな物事なのに、身近であればあるほど、自分にとっての影響はとても大きいと思ってしまう。

例えばご近所トラブルなんかがそう。
ただ「近い」というだけで、直接自分に影響があるから、小さな事も目に付くし、気になる。

だけど、外から見ると大した問題ではなくて、60億人いるたった1人の人間が、ちょっと騒いでるだけに過ぎない。

お客さんとのトラブルも
「人は大切にしよう」
そんな考え方は、とても重要であるが、案外お客さん1人いなくなったところで、会社にも仕事にも大した影響が出なかったりする。
むしろ、クレーマー1人の人に執着する方が会社にとってダメージが大きかったりする。

もちろん、原因を考える事は大事だが、ここで言いたいのは、あまりにも人やモノやコトに執着する事が、僕は必ずしも良いとは言えないということ。

僕が大事に残しているモノの話。
僕は「いつか使うかも」と残してあるが他人から見れば「ガラクタ」にしか見えないモノもある。

「モノは大事にしよう」
それはとても良い心がけだ。
けれども、あれもこれも大事だと言っていると、結局ゴミの山に住むことになる。


借金があるとか、障害があるとか、トラブルばかりだとか、そういうコトも全て同じ。


1つの物事に執着し、集中する事は大切である反面、執着するにも集中するにもエネルギーが必要になる。

人を大事にしよう、モノを大事にしようという割に自分自身のエネルギーは大事にしていないことが往々にしてある。


人もモノもコトも、世の中、無尽蔵にあるが、自分はたった1人しかいないのに。

優しい人は、自分のことを置き去りにして、他人やモノやコトを大事にしがちだが、自分のことを大事にするくらいでちょうど良いのだと、僕は考えている。

自分のエネルギーを何に使うのか、限りあるエネルギーをどこに使うのか、エネルギーを奪っている人やモノがないかどうか、今一度考え、本当に...本当にそれが大事なのかどうか、自分自身に問うた方が良い。

良く見渡したら良い、この世界は広く、可能性はいくらでもある。
案外「どうでもいいこと」がほとんどだと僕は考える。


せっかく長生きできる良い時代になったのだから、より良く生きていきたいものだ。

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