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心理的安全性と「對事不對人」

久しぶりのnoteである。丸3カ月ぶり。

先週、書評の仕事でハーバード・ビジネススクール教授、Amy C.Edomondsonの邦訳最新刊『恐れのない組織』を読んだ。
組織/チームにとって「心理的安全性」というものが、いかに重大な影響をもたらすかについて書かれたものだ。
ふだん、ビジネス書の類を自分から読むことはあまりないので新鮮だった。

心理的安全性とは、大まかに言えば「みんなが気兼ねなく意見を述べることができ、自分らしくいられる文化」のことだ。
従業員が、自分の意見が職場で重視されていると実感するのが当たり前になったら、どんなことを達成できるようになるか想像してみよう。そのような組織を、私は「フィアレスな組織」と呼んでいる。

Edomondson教授は1996年から「心理的安全性(Psychological safety)」の重要性を提唱し、研究と教育を続けている。
2012年、Googleは「Project Aristotle」を立ち上げ、生産性の高いチームの条件について4年がかりで分析をした。
導き出された複数の条件のなかで、最重要なものとされたのが心理的安全性だった。
今では、企業のエグゼクティブ、医療現場などでも、この概念が広く知られるようになっている。

自分が気づいたこと、思ったこと。それを気兼ねなく発言する。
このシンプルなことが、「組織」のなかでは途端に難しくなる。強権的で抑圧的なヒエラルキーが存在すると、ほぼ不可能になる。
『恐れのない組織』にも取り上げられている、スペースシャトル・コロンビア号の爆発事故(2003年)、テネリフェ島で2機のジャンボ機が衝突した史上最悪の航空機事故(1977年)、東京電力福島第一原子力発電所の事故(2011年)などに共通するのは、事前に異常や危機に気づいた人の意見が、いずれも組織のなかで無視され、軽んじられたことだ。

Edomondson教授は、

イノベーションが成否のカギを握る世界で組織が本当に成功するためには、優秀で意欲的な人を採用するだけでは十分ではない。

と述べている。
イノベーションが生まれるためには、その「優秀で意欲的な人」が、いつでも自分の意見を述べることができ、それが内容の如何を問わず歓迎され称賛される〝文化〟が組織に備わっている必要がある。
立場によって沈黙が強いられる組織や、余計なことを話すより黙っている方がリスクが低いと思わせるような組織では、どんな「優秀で意欲的な人」も存在する意味がない。

このEdomondson教授の指摘はとても腑に落ちた。
というのも、申し分のない学歴で、それなりの競争をくぐり抜けて採用されたであろう人材が、数年も経たないうちに、なぜか信じられないくらい〝仕事のできない人〟になっていく。最近、そういう会社や組織を見聞することが少なくなかったからだ。

さらにいうと、前世紀ではそれなりの成果を生み続けてきた会社が、今ではすっかり硬直し、人が育たない痩せた土壌になってしまっているケースがある。
なぜ、そのようになってしまったのか不思議でならなかったが、その謎も少し解けた気がした。
おそらく、単純な右肩上がりの正解がわかりやすい時代には、経験値豊富なボスの命令に忠実に従う組織であればよかったのだろう。

しかし、今日のように変化が速く不確実性の増した時代では、それではイノベーションは望めない。
年齢や職責に関係なく、多様な気づき、発想、意見が自由に飛び交うチームでなければ新しいものは生まれてこない。
それにもかかわらず、組織文化が旧態依然で「心理的安全性」が用意されていないとすれば、下位の者ほど黙るしかなくなる。
もはやイノベーションは起きず、採用された優秀な人材も早々にこじんまりと乾いていく。

先日のBUSINESS INSIDERに、ノンフィクション・ライターであり、台湾で日本語・繁体字中国語でのコンテンツ制作をおこなう草月藤編集有限公司を経営する近藤弥生子さんの記事が出ていた。
彼女は、オードリー・タンへの20時間近い単独対面インタビューをまとめた『オードリー・タンの思考 IQよりも大切なこと』を2月に刊行している。

2011年に台湾に移住した近藤さんは、

もともと台湾では、IQの高さよりもEQ(Emotional Intelligence Quotient、心の知能指数)を大切にするという文化がある。

と書く。
オードリーはその理由について近藤さんに、

私たちは、挫折や対立を経験した時、どのように自分の心をケアすれば良いのかを非常に重視しています。台湾は人口密度がとても高いので、これは必須スキルなのです。

と即答し、「對事不對人(ドゥイシーブドゥイレン。人ではなく、物事に対しておこなおうという意味)」という、台湾では誰もが知っている言葉を教えてくれたという。
誰かに注意をする時でも、その人を非難するのではなく、その行為に注意を促す。
島という社会で人々が生きるためには、異質な人間を否定し排除するのではなく、あくまでも行為の是非を問わなければならないのだろう。

10年近く前、台北の地下鉄に乗っていて、とても新鮮な驚きを覚えたことがある。
電車が駅についてドアが開くたびに、座席に座っている若い人たちの多くが顔を上げて、自分が席を譲ってあげるべき人が乗り込んでこないかを確認していたのだ。
優先座席でも何でもない、一般のシートである。

公共バスに乗って故宮博物院に向かっていた時も、運賃がいくらになるのか戸惑っていたら、そばに座っていた婦人が即座に声をかけて教えてくれた。
そうした自然なふるまいの親切に、台湾では何度も遭遇した。
誰かに対して迷わず手を差し伸べることが、ここではあたりまえの文化になっているのだと実感した。

何かを言う時、する時に、恐れず気兼ねしない空気。
台湾には社会そのものの「心理的安全性」が高いのかもしれない。それが、たとえばオードリー・タンのような人材が十全に力を発揮できる背景になっているのだろう。

きょう4月1日は、私たちがBUNBOUというチームを立ち上げた記念日である。
優秀な若いリーダーのもとで、今期も業績を上げることができた。
私たちが大事にしていることのひとつが、定期的な〝雑談〟である。
もちろん仕事に関するミーティングと重なる部分はあるが、ざっくばらんにフラットに雑談をする。
たぶんそれが私たちのチームの「心理的安全性」の土壌になっているような気がする。






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