太宰作品と思い出
今日は桜桃忌だという。
太宰治の命日だ。いや、正確には遺体が見つかった日。山崎富栄という女性と入水して、数日後に発見されたという、その日。
私は高校時代に純文学に傾倒して、なかでもいちばん読み込んだのが太宰だった。持っていた短編集や『人間失格』の文庫本を擦り切れるほどに読んで、なんなら学校にも持ち込んで、担任の国語教師に呆れられた。
担任は池井戸潤を愛読していて、ひねくれた性格のくせに純文学はほとんど読まない人だった。いちど、読んだことがないからと私の『人間失格』を借りて読み、「好みじゃない」と言って返してきた。
「純文学なんか読んでるからそんな性格になるんだ」
と、教師失格な発言もされた。実際、彼は教師としてはあまり褒められたことを言わない人だったけれど、そんな口さがない大人に生意気を言うのが、当時の私は楽しかった。
太宰作品のなかでは『斜陽』『ヴィヨンの妻』『東京八景』あたりが好きだ。『人間失格』も嫌いではないけれど、好きだと言いたい作品でもない。作品自体がどうこうというわけではなく、「『人間失格』が好きだ」などと言う自分を想像すると吐き気がする、というだけ。イキった中学生みたいじゃないか。この自意識も大概か。
『東京八景』で、いちばん好きな文がこれだ。好きな理由を説明しようとすると、月並みな言葉しか並べられなくなりそうで、あまり書きたくはない。
絶望や苦しみだけを語る文章ではなく、そのなかに一筋の光を見るような、そういう作品が好きだ。先程挙げた三本の作品は、私がそのように読んだものだ。『斜陽』なんて最たるものだよな。
太宰がなにを思って書いたかは知らないし、知る必要もないと思う。小説に限らず、物語とは、読者の抱いた印象が、その在り方を規定するものだろう。私の考えでしかないけれど。
だからこそ、多感な時期に太宰を読んでおいて良かったと思う。読んでどう思ったか、なにを考えたか、どういう影響を受けたかを拙く言語化して、それに酔うことのできる時期に。
自分の考えに酔うことができるというのも考えものかもしれないが、それを経験しておいて良かった。ありもしない他人の目に怯えて、素直に言葉を紡ぐことのできない自意識を、曖昧にしか形成していなかった時代。そのころにはもう戻りたくはないし、残念ながら戻れもしない。ああ、もうすこし年を重ねたら、逆に素直になれるのかもしれないけれど。
先述した担任には世話になったが、本の趣味はあまり合わなかった。ただ、好んで読むかどうかは別として、互いが好きな作品は互いに面白いと思えるものだった。「このミス」は当たり外れが大きい、という点ではふたりして意見が合致していたし。
とはいえ、高校生で読んだ作品によって人格形成がされるわけではないんじゃないかな。もしそうなら、私はいまごろもっと酒を飲んでいるだろうし。
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