灰がかった青とくすんだオレンジ

自分が何かを投稿している、つまりこの投稿があるということは、この日は制作を行うことができなかったということである。今後、投稿を振り返るであろう私は、この事実を噛み締めるように。とは言っても、何もできなかった自分を責めるための日記として書くわけではない。むしろ、するべきことをしなかった時間で感じたことや、得られたものを記録し、風化させないために書くので、未来の私はこの行動を誇ってもいいのではないかとさえ思う。

ところで、この記事の表題の「灰がかった青とくすんだオレンジ」というのは私の感情を表す色の一つである。この色は、私のある感情の中の、いわゆる心象風景を象徴している。私は感情を言葉で表すより先に映像が出てきてしまうので、その時に見た景色の空気の色で、感情に名前をつけたりする。そのため、以降の記事もタイトルは色になるだろう。

今日は、どうにも制作に取り掛かる気が起きず、ネットの海を彷徨っていたら、どこかの誰かのとあるブログ記事を見つけた。特に何か目を引くものではなかったけれど、私には何かが刺さったようだった。そこに書かれていた投稿者の日常や、感情が、自分がまるで当事者であるかのように、鮮明に自分の中で再生された。そこからは、外から見ると幸せであるとは言い難くも、確かに幸せの形が感じられた。しかしその幸せは、儚く、脆く、そして刹那的で、虚無感の中に何か温かな優しい光が灯ったような、でも、決してその空間は温かな光で満たされることはない、どことなく虚しいものだった。その虚しさからか、それとも投稿者の苦悩を思ってか、なぜか私は涙してしまった。感情というものはとても厄介で、切り替えに時間を要するうえに、発生した大まかな要因はわかっても、明確な原因はわからない。それだけでなく、言葉に表現することが難しい。どんなに言葉を尽くしても、正確に表現することができない。言葉にした途端に別の何かになる。何にせよ、感情を言い表すのは困難だということである。

自分の感情を説明するために色を用いているのに、今から色の意味を説明するのはナンセンスだが致し方ない。これを見る未来の自分だけでなく、万が一にもここにたどり着いてしまったどこかの誰かが、暇つぶしにでも読めるものにしたいので、説明したい。灰がかった青とくすんだオレンジの二色はともに、灰とくすみでパッとしない彩度の低い地味な色となっている。これがあらわしているのが、儚さや脆さで、このまま彩度が落ち続けて、最後には灰一色に混ざって消えてしまうような危うさをイメージしている。それに対して青があらわしているのは、どことない不安と虚しさ、悲哀、オレンジがあらわしているのは、過去を偲ぶ思いと、暖かい幸福である。どの感情にもすりガラスのようなフィルターがかかっていて、鈍く感じる、それが灰やくすみのもう一つの意味でもある。私はこの感情になって、自然と涙がこぼれてしまったが、何とも言えず虚しい感覚が残った。

私は感動しやすい質なので、それぞれの感情全てに区別がつけられないほどに感情の種類は多い。灰がかった青も、くすんだオレンジにもいくつか種類がある。この時の灰がかった青は青みがかった灰にとても近い青で、青色ではあるけど、とても灰色のような色をしていて、少し暗い。くすんだオレンジは、日が傾いて黄昏時になろうとした日の光を受けた髪の毛が透かす光の色をすりガラスに通したようなくすんだ色で、これもまた絞り過ぎたフィルムカメラの写真のように暗い。

この話のオチは見つからないけれども、何とも言えない感情の記録としての記述にはなっているだろう。これを読んだ私は、今後の創作に役立てるように。偶然にも読んでくれた諸君は、暇つぶしになった、と思っているようであれば、こちらとしては幸いである。正直もところ初めての投稿なので、書き方がよくわかっていない。そのために読んでいて心持ちがままならなかったのであれば、以後改善の余地はあるので、また見かけたら敬遠せずに読んでいってもらえれば嬉しい。最後まで読んでくれてありがとう。

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